「大震災と復興の経済学:関東大震災に日本の経済学者はいかに反応したか」前半http://t.co/OZotvVQ の続き。

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5 福田徳三の平時と危機の経済学

? 関東大震災の余震がまだ続く中、福田徳三は震災の経済的影響の調査を行い、それを一書『復興経済の原理及び若干問題』にまとめた[1]。

「ここに大正一二年(1923)年九月一日わが関東地方を襲った大震災は、端なくも、われらに、その力と勇気とを振い起こさしむべき機会を与えた。私は、同学諸君の驥尾に付して、この試験に応ずべく、一方書斎内において、他方街頭に出でて、自分の微弱なる心力と体力の及ぶかぎり、あるいは思索し、あるいは奔走し、あるいは調査し、あるいは勧説することに努めた」[2]。

 福田は学生たちの協力を得て、またみずからも「水筒を肩に、ゲートルばきで、トラックや馬力の絡繹たる巷を駆けずり廻った」のであり、『復興経済の原理及び若干問題』にはそのときの調査と経験を基にした福田の震災復興に対する考えが非常な説得力をもって説かれている。また同書は、福田の目指した「厚生の経済学」の核心ともいえる思想に一貫として支えられていた。また福田の震災についての発言は、小泉の「災害経済学」を批判的にとらえ直し、「復興の経済学」という危機の経済学といえた。

 福田は、大震災による被害を、「私の立場から見た経済上の損失なるものは、地震のために倒され、火事のために焼かれた富では」なく、むしろ無形財に「将来」にわたる損失があることに求めた。いうまでもなく幾多の人命が直接には震災で、間接には「国士となのる輩」によって失われたことが最大の損失であると福田は嘆いた。「幾多の人命」には、当時虐殺された朝鮮人・中国人、社会主義者らが含まれていると考えていい。その上で、彼自身の最も強調する無形的な損失とは、罹災した人々の失業であり、より直接には失業による労働者の(1)技能的・職業的損失、(2)道徳的性格の損傷であった。前者の問題は、当時政治的な問題にまで発展した火災保険金問題や土地家屋の賃借権問題と関連するものであった。失業問題がどのように火災保険金問題や土地建物の賃借権問題と関係するかは後述する。

 まず(2)の罹災者の道徳的性格の破壊について、福田はもっぱらおそまつな避難住居を問題視した。

 「集団バラックにおける徳性の破壊については、私は幾多の事例を目撃した。風紀などはいうまでもないことであるが、私のもっとも恐れるところは生存の肯定力の薄弱化これである。ことに正しく人らしく生きんとする意思の減損これである。したがって、今日の経済生活の根本基調を成す営生の衝動の悪化これである」[3]。

 「生存肯定の薄弱化」こそ「無形の財物の破壊の最大項目」であると福田は強調した。罹災者の仮設住宅が、衛生面や利便性などの点で、まったく住むものの適性や能力を無視したものであるとする福田の批判は、関東大震災から70年以上たって阪神淡路大震災や東日本大震災を直接・間接に経験したわたしたちの共感を素直に呼ぶ。

 福田のこのような震災の与えた損害に対する基本的な見解は、当時の他の経済学者・社会主義者たちの見解とは異なっていた。例えば、福田の弟子のひとりである小泉信三の主張は先にも言及したように有体物の破壊に注目したにすぎなかった。

 小泉は震災当時、鎌倉の私邸にいて被災した。地震のため停電した住居で、数日をかけてピグーの『厚生経済学』(1920)を読破し、その要旨を「社会政策の経済原理ーPigou, The Economics of Welfareを読むー」(1923)にまとめた[4]。小泉はピグーの著書を、「今回の大災に際して当に先ず読むべき経済学書の一つ」としている。日本における『厚生経済学』の紹介が関東大震災を契機にしており、またそれが本格的な日本の「厚生の経済学」の誕生を導いたことは注目すべきことだ[5]。

 さらに小泉は、ピグーの『厚生経済学』(1920)や『戦争の経済学』(1921)をうけて、前述した論説「震災所見」の中で、「災害はまず有体財の破壊」であると定義した。この定義自体、福田の災害を無形財の損失とする見解と対立するが、小泉はすすんで論点を政府の「暴利取締令」に絞って次のように批判した。

 小泉によれば、震災を復旧するための造営物などの建設やそれに関連する財貨の価格騰貴は、あまりに抑制することはかえって「帝都復興」の妨げになるとする。なぜなら、それらの財や資本は利潤を目的に充用されるのだから、その利潤を必要以上に制限することは、かえって経済原理を妨害し、資本の充用を阻止してしまうからである。「少しばかりの戦争『暴利』(プロフィチャリング)は、生産の大阻害よりも害が少ない。大なる『暴利』は極く少しばかりの生産阻害よりも有害である」とピグーの言葉を引いて自からの主張を要約している[6]。

 小泉が、もっぱら「帝都復興」を、破壊された建物や施設などの有体物の再建と等しいものだとしていたことは、罹災者の失業問題について福田に比べて格段に問題とするところが少なかったことでも傍証される。確かに、小泉は福田と同様に学生を利用した罹災民調査を行ったが、途中で中断したことは先にみた。

 ところが小泉は福田による批判をうけて、自らの見解があまりにピグー贔屓であったことを反省する内容の手紙を福田に送っている。他方で小泉のみならず、「有体物の破壊」を震災の本質とする見解は、政府の施策者をも含めた当時の多くの識者の意見を代表するものであったといえよう。

 例えば、福田は後藤新平らのすすめる帝都復興院の政策は、「都市計画の一事を出ていない」と批判し、それは単に「江戸式東京とその時代おくれな諸々の有形、無形造営物の旧態回復」にすぎないと断じている。むしろ今回の震災を機に、「新旧代替転置」を図らなければならないとした[7]。だが、実際には急を要する社会政策の実施がみられないばかりか、非常時を便法にして普通選挙制度の導入や健康保険法の制定を意図的に遅らす機運があると政府を批判している。

 次に、失業による労働者の技能的・職業的損失について見てみよう。福田は、まずシーボーム・ラウントリーやピグーらの失業概念を批判している[8]。ラウントリーらは、失業を主に「雇用失業者」と同義にして考えている。だが、「今回現在の罹災者失業問題は平時の失業問題」と異なる、と福田は考えていた。

 ラウントリーらに対して、福田の考える「失業」とは、第1に「雇われ口のない賃金労働者」(「失職者」)と、第2に「広く職業を失い之を快復し能わざるものの全部」(「失業者」)を含むものであった。福田はあわせて「失職業者」と名付けている。ただしこの用語法を福田は自らは厳密に利用していない。

 前者の「失職者」はラウントリーらの「雇用失業者」と同義である。後者は、労働者の保有する労働の質が、提供されている職業や働き口に対し適応できないか、または技術や才能がいかされないための失業状態と考えられる。そして両者ともに、福田の失業論の中では、政府の介入なくして救済されない状態にある。まず「失職者」についていえば、震災の中で発生した特有の私的契約の瑕疵が原因で失業が生じていて、この私的契約の瑕疵は市場にまかせていても自己修復しないからだ。

 この震災下における私的契約の瑕疵とは、先に挙げた火災保険問題と土地建物の賃借権問題にあった。この両者が、災害に遭遇した企業の経済的な負担になりいっこうに失業対策がすすまないと福田は考えたのである。

 火災保険問題とは、これは戦後、阪神大震災などでも話題になったが、火災保険には、地震による火災については特約免責条項があり、そのため罹災した企業や民間人には支払いが行われなかった。また土地建物の賃借権問題は、地震や火災などで倒壊・消失した工場や家屋を賃貸していた場合に生じた。これらの賃借権は、その建物の喪失によって効力を失うと、当時の民法では定められていた。これら2つの問題が企業の足かせになり、雇用契約の解除いわゆる首切りが多く見られたのである。

 これらの問題は、小泉が議論した「暴利取締令」とともに震災後の大きな社会問題であり、政治家・法律家・経済学者をまきこんで論争が行われていた。例えば、社会主義者の山川均は、震災救済こそ実は世間で批判をうける「社会主義政策」そのものだとし、私有財産制の制限を復興政策として主張した。具体的には、都市計画のための土地国有化、火災保険金問題の解決を商工業者側に有利に設定した契約内容の変更であった[9]。

 福田の主張も山川と同様に、私有財産制の制限という点では同じだった。福田は『生存権擁護令』を公布し、政府は私法の一部モラトリアムを断行すべきであると説いた。

 「其の規定は、『政府は此度の震災によって危殆に置かれたる人民の生存を擁護するに必要と認めたる条項に限り、現行法律の適用を来何年何月何日まで停止し、之に代るべき命令を発することを得』とし所有権及其派生諸権と債権、就中契約に関する事項中、罹災民の生存を擁護するに不適当と認めたる条項の効力を一時停止し、之に代るべき法規を命令として発すべきである」[10]。

 火災保険の免責特約条項の停止を行い、その保険金で民間の企業復興の一助にすること、さらにこれらと連動して雇用契約の解除の一時停止を行うことなどが含まれていた。同時に、福田は政府による保険会社への補助金政策を主張した。政府が保険金支払いの最終的な担い手になることで、保険会社の国営化を福田は最終的な目的にした。ただ清浦内閣の「借地借家臨時処理法」(大正13年8月15日)で一応の実現をみたと、福田自身は結論している。

 他方で、賃借権の消滅に関する条項の一時停止については、「人間にふさわしい住居の要求」である「居住権」Wohnungsrechtを根拠とするものであった。

 「土地家屋の貸借は居住若しくは営業本拠(Leben=oder Erwerbsstandort)の賃借である。土地や家屋は其形態たるに過ぎない。其の実質を名けて『生存(又は営業)本拠権』((Leben)=(Erwebs)standortsrecht)略して『居住権』Wohnungsrechtと云はんと欲する。居住権は建物の焼失と共に焼け去るものではない。火に焼けず雨に流されざる堅固なる無形なる人間本来固有の権利である」[11]。

 この「居住権」は、先の罹災者の仮設住宅の悪条件、それによる道徳的性格の毀損という論点につながっていた。

 ところで「平時」の失業ではない、いわば危機における失業概念を、福田は震災後の罹災民調査で鍛え上げて行った。福田は罹災民調査の結果、東京市の失業者を全体でほぼ11万2千人であると推定した。福田はこの失業調査について、従来の日本ではこの種の調査が行われなかったことが、現実に適応した社会政策の実現を困難にしていたとし、その意義を強調している[12]。

 またこの失業調査を支える理論的な基盤は、自らの主張する「経済民勢学」 Economic? Demographyであった[13]。「経済民勢学」とは、福田によれば従来の経済統計と経済地理(職業分布)を統合したものであり、「人間の生活態様の統計的計究」である。具体的には、職業によって社会的な地位(「民勢学的分類」ともSocial Colorともいう)を表わし、職業別の失業調査に力点を置くものとなっている。

 以下、福田の調査の概要をみておこう。

 国税調査をもとにした当時の東京市の人口は大正9年10月時点で217万人ほどであった。そこから震災当日の人口を234万人ほどだと福田は推計する。福田の調査の結果は、震災によって70万人余りが生活の糧を十分に得ていない人たちであり、その割合は東京市の人口の約三割であった。

 福田が行った失業調査は、東京市営のバラックに住む人々に対して実施された。具体的には、当時の地名で日比谷、竹の臺、池端、明治神宮外苑、月島、芝離宮、九段上、テント町といわれた馬場先の9か所に生活していた、3万7千人に対して行う大規模なものだった。期間は1923年11月2日より10日間(日曜除く)。調査はボランティアの学生を使い、世帯票、個人票を配布して聞きとり調査をした。世帯票には、世帯の従来または現在の生計費、希望する本業・副業の職種を男女別を明記させた。個人票には、年齢、従来および現在の本業、その勤務時間、賃金の形態別(時間給、出来高給)の記入欄があり、また月収、地位(業主、職員、労働者)、従来および現在の副業、希望の副業(種類、時間、収入)などを書き込むことが求められた。

 調査から福田が得たものは次の通りだった。

 (1)バラックに居住した被災者のうち以前と同じ業務に復帰したものは全体の38%程度だった。職業別にみると、商業従事者よりも工業従事者の失業が多いことがわかった。工業従事者の失業者数が大きい原因は、その多くが福田の定義による「失業者」(いわゆる雇用のミスマッチで生じている失業)だからであろう。また男女比でみると、男性は40%の復帰率だったが、女性の割合はきわめて低く20%程度であった。バラック全体の失業者は60%超で、そのうち34%が完全失業者、28%が不完全失業者である。この後者の不完全失業者とは、福田の言葉による「転業者」(福田の定義する「失業者」でもある)を意味し、例えば以前の副業を本業にするもの、あるいは震災前とはまったく異なる職業についているもの(例:旋盤工が焼け跡の片付けをしているものなど)を範疇に含んだ。これら「転業者」ー特に女性の雇用―の対策として職業紹介所の強化を福田は唱えた。

 (2)福田の推計では、東京市全体の罹災した有業者総数に対する完全失業者の比率は34%超であり、その人数は11万2千人以上であった。その求め方は東京市内外にいる罹災者総数を89万5千人ほどとする。これに福田が調査したバラックでの震災前の有業者の割合(=有業率)36.7を掛ける。すると避難している人たちの中で震災前に有業者であった総数が32万8千人ほどと求められる。そこにバラック調査で判明した現在時点の失業率34.16を掛けると、現在の東京市の避難者にしめる失業者総数約11万2千人が推計される。この失業者11万人余には、福田の定義する「失職者」と「失業者」双方が含まれると考えられる。ところでこの人数は、また「直接失業者」であるとも福田はいう。さらにこの人たちに扶養されている人を「間接失業者」と名付け、一人当たり1.75人を扶養しているとする。そして「直接・間接失業者」の総数は三十万六千人だとした。この人数を福田は「狭義の失業者」とする。

 (3)また先の転業者のように「広義の失業者」を福田は考えていた。

 「今現に何か職業を持つて居るが、それは災前の職業其のものでなく、多くは已むを得ず臨時手当任せに有り付いた職業を営んで居るもの、これを転業者と名付けた。雑貨屋の主人がスイトン屋になったり、旋盤工が焼跡片付け人夫になったり、会社の社長が絵はがき屋になったり、其例は沢山ある」[14]。

 これら「転業者」は、雇用のミスマッチが原因で発生している福田のいうところの「失業者」であり、その総数は9万2千人になると福田は推測した。

 (4)さらに「広義の失業者」には、「災前には何等の職業を有して居なかったもので今も尚職業を有つて居らぬが、それでは生きていかれないから、何か身に相応した職業」を得ようとする新求職者が含まれる。これも「失業者」と「失職者」双方に陥いる可能性があり、その総数は5万5千人と推測した。つまり雇用のミスマッチで発生する福田流の「失業者」は、(2)の完全失業者約11万2千人のいくばくか、とこの(3)の「転業者」すべて、そして(4)の新求職者のいくばくか、を含む。「失職者」はその残余である。

 (5)「転業者」と「新求職者」の扶養する人たちを、潜在的な間接失業者として換算すると、直接・間接失業者はあわせて二十七万二千五百人になった。

 (6)「狭義の失業者」と「広義の失業者」のそれぞれの直接・間接失業者すべてあわせると五十七万八千五百人になる。これが福田によれば生計困難者である。東京市の人口を福田は二百三十四万人と推計していたので、その比率は全体の24.7%となった。つまり東京市の四人に一人が震災によって生活が危機にさらされていた。ただしこれは福田によれば最も少ない数値であり、彼の最大推計値は約70万人が「震災の為めに、其生存を多かれ少なかれ脅かされつつあるもの」である[15]。

 復興事業の第一はこの総数を念頭においた復興策である必要がある、と福田は政府に要求した。そしてただ単に職を与えるのではなく、失業者の保有する「無形の資本」、つまり人的資本を大切にし、彼らの技能や適性に応じた職業機会を提供することにも注意が必要だ、というのが福田の結論でもあった。

 震災で罹災したバラック住いの住民たちに「生存肯定力の薄弱化」をみ、また震災による私法の欠陥による失業の発生を福田は問題視していた。同時に雇用機会の消失が、膨大な人数の雇用のミスマッチを生み出している可能性にも福田は注目した。たしかにこれは震災下の異常な状況で生じた“危機の失業”というもので、福田のいう「平時の失業」とは一見すると別である。だが、そもそも福田は従来から労働契約の瑕疵を問題にし、資本主義経済がそれ自体では人々の厚生を引き下げてしまうことを問題視していた。そのため集団的雇用契約を企業が認承するように政府が強制するように求めていた。

復興の経済においても、福田は火災保険や賃借権契約など私法の瑕疵を政府の介入によって是正することで、どのようにして「厚生の経済」へ「新旧代替転置」するか、を大きな課題にしていた。その意味では、福田の『生存権擁護令』の主張は、彼の独自の主張であった「生存権の社会政策」(私法の瑕疵を補う試みの基礎的政策)とまさしく言葉の上の類似に留まらず、実質においても一致し連続したものだった。震災以後、福田の「厚生の経済学」はより深化していく[16]。

?6 石橋湛山の「小日本主義」とリフレーション政策への途

 石橋湛山が関東大震災の前後で書いた論説は『東洋経済新報』を中心に膨大なものがある。こと復興政策に直接関係したものでも十数本、また復興政策に間接的に関連していた政治経済の話題から拾えばその数は四、五十本は下らない。テーマ的には、震災直後では、土地公有制度の実行や都市計画の見直しを求めるものがあった。だが石橋の論説をこの時期最も特徴づけたのは、財政緊縮と物価安定政策である。前者の財政緊縮は、彼の「小日本主義」に裏付けられた陸海軍の軍事支出削減の要求であったし、後者の物価安定は濱口蔵相に代表されたデフレ政策への対抗で出されたものだ。

 日本の「行き詰まり」(これは集約的には正貨枯渇問題=財政危機問題として意識されていた)が潜在的な過剰人口にあるとし、その過剰人口を植民地フロンティア確保などの対外政策で解消することは、当時の政策当事者共通の態度であった。これは濱口雄幸、加藤友三郎、井上準之助ら憲政会、そして高橋是清らの政友会の政治家たちにも党派を問わず多かれ少なかれ共通したビジョン(=大日本主義)となっていた。それに対して石橋の抱いたビジョンは「小日本主義」と標語されたものであり、それは自由貿易体制の利益を強調し、その実現のために対中国との外国関係の改善が必然的に帰結した。さらには既存の植民地(朝鮮半島、台湾など)の純便益が、自由貿易のそれに比較して大幅に劣ることから、植民地の放棄をも石橋は積極的に主張し、当時の政策当事者の共通のビジョンを「大日本主義の幻想」と切って捨てた[17]。

 石橋の政権批判は、特に第二次加藤内閣時に憲政会の政策(デフレをもたらす旧平価解禁、財政緊縮・財界整理の方針)が固まっていくにつれて厳しい口調になっていく。ただ一貫して「小日本主義」の立場から、軍事支出削減が、彼の財政緊縮政策の中核にあった。この軍事支出削減のためには政党間のビジョンの転換と協調が必要であると石橋は考えていたが、歴代内閣について彼の不安と失望は大きかった。

 「吾輩の信ずる所に依れば、健全なる財政に於ては、軍事費は総歳出に対して多くも二割を超えてはならぬ。若し此標準を以て、而して総歳出を十二億三千六百万円とするならば、(例えば大正13年度予算での陸海軍歳出総額は四億四千万超であった)我軍事費は、陸海軍合わせて二億四千七百二十万円以下に減縮するを要する」[18]

 「例えば之を財政に見る。国民の中には一般会計歳出を十億円の程度に緊縮すべしとの声もある。けれども、それが為めには一般行政費の節約は勿論なれども、就中陸海軍費に大削減を加うる要がある。護憲派には之を断行する勇気があるか、断行せねばならぬとする信念があるか。(略) 所詮護憲派には、些も財政の整理緊縮を行う用意なしと見らるるのである」[19]。

 政治的な不安定(大日本主義の幻想)が払しょくされないかぎり、経済政策の効果が表れるかどうか確信がもてない、というのが石橋の懸念であった。なぜなら石橋は復興資金の調達を大規模な内外債の発行で考えていたが、それが順調に消化されるかどうかは、政府の財政緊縮への長期的なコミットに依存していると考えていたからである[20]。この面での政治的不安はあったものの、実際には外債発行が実現し、これによって復興資金への活用と同時に輸入代金の清算による正貨流出にも耐えられることに一応はなった。

 「欧州戦争中に溜めた正貨を失うことを、身を切らるる如く苦痛とした我朝野は、うかと通貨を膨張させることが、正貨の流出を引起すことを恐れた。併し今や新たに四億七千余万円の正貨が出来たのであるから、彼等は安心して通貨の膨張を敢えてなし得る。而して通貨の膨張を厭わねば、預金部を利用してなり、内債を起こしてなり、或いは国庫剰余金を流用してなり、復興資金を調達することは容易である」[21]。

 預金部が保有している国債を日本銀行に直接引き受けさせること、内債を市場消化でファイナンスすること、国庫剰余金(当時の「埋蔵金」)を活用するなどの通貨膨張であるインフレーション政策が積極的に提唱された。これらは先に小泉信三が「災害経済学」の中心としたインフレーション政策を具体化したものといえる。

 だが、実際には政府は外債で調達した資金を、過度に「正貨枯渇」(=当時の財政危機の別表現)を恐れるあまりに、対外準備としてかさ上げしたまま通貨膨張政策=インフレーション政策は放棄された。それは復興政策もまた日本経済をも「暗黒」にするデフレ政策そのものと石橋には映った。

この政府のデフレ政策への批判は、例えば大正14年の4月に公表された「物価の安定か引下か」に典型的に読み取ることができる。

「我が財界を暗黒にしているものは、政府の経済政策の暗黒である。略 政府の経済政策の暗黒とは何であるか。政府の、金解禁に反対しながら、しかも内心に於いては、兎角物価の引下の方針に固執し、機会ある毎に、或は強いても、其の実現を図る態度である。而して其の根底は実に濱口蔵相の悲観論に発している。蔵相は我国の財政状態を破産と診断した。略 ここに於いて、蔵相は一も緊縮二も緊縮、従って日銀の利下げには頑として反対し、為替相場が少しでも回復すれば、我国力の増進信用の回復の兆の如く思うて、之を喜び、其の結果として、我が財界が、生産に於いても取引に於いても益々萎縮せるを見て、それでこそ正気に復り、破産から免れるのである、としていられる。かくては、生めよ、殖えよ、地に満てよ、と勇気を鼓舞するものではなくして、倒れよ、死ねよ、無くなれよ、と蘇活を呪詛するものである」[22]

政府は財政が破産していると公言し、金融緩和を拒否し、デフレと円高の継続を期待する。これは今日の東日本大震災をめぐる復興政策の対立構図とまったく同じではないだろうか[23]。石橋は財政の緊縮に長期的にコミットしつつ、他方で積極的な金融緩和をすれば、財政の再建できたであろう、と指摘する。しかし政府の立場は異なった。

「惜哉、浜口蔵相は唯だ緊縮することを知りて、其の意義を解せない。唯だ悲観ばかりして、財界を睨みつけている。財界は暗黒に蔽われる外、何があり得よう。」[24]

 湛山はデフレ政策という暗黒政策をやめ物価の安定を採用すべきだという。それはインフレ率がゼロという意味の物価安定ではない。(同時代的に石橋が観察していたドイツなどのハイパーインフレーションではなく)低位のインフレであった。この意味で物価が安定すれば、財界の生産の計画に見通しがつきやすきなり、また大震災の復旧復興政策も予定通り促進できる。それが経済全体の回復と産業振興をもたらすと、石橋は何度も強調している。

 しかし政府のデフレ政策(=財政破産の喧伝とその回避策)はやまず、金融恐慌、昭和恐慌へとその流れは続いていく。

終わりに 現代への教訓

 関東大震災という「危機」をめぐって経済学者やエコノミストたちがどのような活動を行ってきたのかをとりあえず一望した。本報告では、まず清算主義とリフレ主義の対立に注目した。典型的には、神戸正雄ら経済学者の大半や、当時の政治家・財界を含んだ主流の考えは清算主義的であり、対して少数の経済学者・エコノミストだけがリフレーション政策を示唆ないし本格的に展開していた。また財政緊縮は清算主義的な経済学者もリフレ主義的な者たちも一様にこの時期は採用していたが、前者は被災者に忍耐を、後者は軍備縮小に力点が置かれていた。これは今日の東日本大震災における論点とも重なる。例えば財政危機を懸念し、その解決を根本的な「税と社会保障の一体改革」に求める人たちは、増税という国民の多くへの忍耐と連帯とを求めているように思える。対して現代のリフレ主義は、公債発行による復興政策をすすめ、デフレ脱却を主眼にしているが、同時に構造改革の積極的な論者でもある(財政再建はリフレのひとつの成果としても認識されている)。これらの現代の論争点は、田中秀臣・上念司(2011)、田中(2011a、2011b)、高橋洋一・田中秀臣・田村秀男・三橋貴明・若田部昌澄・上念司(2011)などで論じた。

また「平時」と「危機」の経済思想の違いも関東大震災のときの経済学者たちは意識していた。典型的には、小泉信三の「災害の経済学」=インフレーション政策の示唆であったり、また福田徳三の失業概念の拡張であった。また「平時」の経済学であった清算主義はそのまま「危機」にも適用されていた。この点については、「平時」の経済思想が「危機」の経済思想として現実に適用されたとき、どのような問題が起きるのか、あるいは起きないのか、大きな論点になるだろう。この点については、上記の田中・上念(2011)で全面的に論じたが、今回の報告では論点の示唆だけに留める。

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中山伊知郎(1973)「福田博士と統計学」『中山伊知郎全集第2巻』講談社所収。

福田徳三(1924/1926)「厚生経済の原理及若干の問題」『経済学全集』第6巻、同文館所収。

松尾尊兌(1995)「吉野作造の朝鮮論」『吉野作造選集』第9巻所収、岩波書店。

山川均(1923)「復興問題と社会主義政策」『山川均全集』第5巻所収、勁草書房。

山口昌男(2005)『「挫折」の昭和史』上巻、岩波書店。

若田部昌澄(2004)「「失われた13年」の経済政策論争」『昭和恐慌の研究』(岩田規久男編)、63-116頁、東洋経済新報社所収。

Pigou,A.C.(1920)The Economics of Welfare,Macmillan(邦訳『厚生経済学』永田清監訳、東洋経済新報社、1953)。

Pigou,A.C.(1921)The Political Economy of War , Macmillan(邦訳『戦争の経済学』内山修策訳、実業之日本社、1944)。

[1] 福田徳三(1924/1926)に後の収録。

[2] 福田徳三(1924/1926)

[3]福田徳三(1924/1926)1832頁。

[4] 小泉(1923a/1968)。

[5] 福田の「復興の経済学」と「厚生の経済学」の関係は、田中秀臣(2011c)を参照。

[6]小泉(1923b/1968)452頁。

[7]福田もそして小泉もそうであるが、震災をそれまでの悪弊のなせるわざとし(地震天鑓論)とし、かえって窮状を奇貨として世直しを図る(世直りへの予兆論)というこの構図は、大震災後日本において広くみられたことである。そして、外岡英俊(1997)によれば、このような天鑓論は、朝鮮人・中国人などの異民族虐殺などにつながる民族主義の露呈をともなっていたとする。

[8] 福田はラウントリー(福田の記法ではローントリー)のいわゆる「貧困のライフモデル」(熟練した技術をもたない労働者は少なくとも人生で三回の貧困に陥る)については言及していない。このラウントリーの貧困のライフモデルについては岩田正美(2007)参照。

[9] 山川均(1923)。

[10]福田徳三(1924/1926)。

[11]福田徳三(1924/1926)1905頁。

[12]失業者調査に特化してはいないが、いわゆる貧困調査の日本における先駆者として、高野岩三郎の大学院時代の統計調査を挙げることができる。また福田の調査以前にも東京市が震災直前に行った調査が存在し、福田も震災後の状況と比較するために利用している。

[13]中山伊知郎(1973)によれば、福田の統計学の体系は、ドイツの統計家G.マイヤーの体系に近似している。マイヤーは、統計学を理論的総論、人口統計、社会統計に区分した。福田は、理論的総合、生存民勢学(人口の静態・動態の分析)、経済民勢学、社会民勢学に分けている。中山によれば、生存民勢学はマイヤーの人口分析に、そして社会民勢学は、同じく社会統計に該当するという。

[14]福田徳三(1924/1926)2013頁

[15]福田徳三(1924/1926)2014頁

[16] 田中秀臣(2011c)で、福田徳三の厚生の経済学についてより立ち入って触れる予定。

[17] 石橋湛山の小日本主義とその現代的意義については、田中秀臣(2006)を参照。

[18] 石橋湛山(1924b/1971)174頁、括弧内は引用者による。

[19] 石橋湛山(1924c/1971)23頁。

[20] 石橋は増税による復興資金調達には否定的であった(石橋湛山(1924b/1971)24頁や贅沢税=消費税批判なども参照)。

[21] 石橋湛山(1924a/1971)170頁。

[22] 石橋湛山(1924d/1971)198-9頁。

[23] 田中秀臣(2011a)。

[24] 石橋湛山(1924d/1971)199頁。