以下の論説は、経済学史学会関東部会5月21日で行った報告「大震災と復興の経済学:関東大震災に日本の経済学者はいかに反応したか」を掲載したもの。前半と後半にわけて掲載予定。

未定稿につき引用・参照の際には著者の許可を得ること(連絡先:twitterで@hidetomitanaka)。

完全版はでき次第告知します。

はじめに

 1923年(大正12年)の関東大震災の復興政策をめぐって、日本の経済学者やエコノミストたちは、さまざまな言論活動や震災をめぐる現実そのものへの関与を行った。その活躍は雑誌や新聞への寄稿を中心にしたものではあったが、同時に震災そのものの体験記、政治的な集団行動、また被災実態のボランティアな調査活動なども含まれていた。本論文ではこの震災時期(主に23年9月1日から25年中ごろまで)を対象として、彼らの活動をいくつかの視点から検証してみたい。特に震災期の経済政策論議は、いわゆる「大正バブル」崩壊(1919年)から昭和恐慌(1930~31年)でピークを迎える経済政策論争―これはデフレ政策を推し進める清算主義か、あるいはリフレーション政策を勧めるリフレ主義かの対立―のひとつの通過点、しかもきわめて重要な通過点であった。経済論壇の主流は、経常収支赤字による対外準備減少を日本の国際競争力の欠如であると評価し、円高=デフレによって非効率な部門を淘汰してその国際競争力を高めて行こうとする清算主義が主流であった。この清算主義的な発想は、当時の憲政会(後の民政党)の経済政策の方向や財界の多くの意見とシンクロしていた。経済学者たちの主流意見は、この清算主義の中で震災復興政策を一体化して考えていこうというものであった。そのため財政緊縮の中での復興政策が志向され、被災地には忍耐が要求された。対して、リフレーション政策(インフレーションに基づく復興政策)を唱える経済学者やエコノミストはきわめて少数であった。

 この清算主義は震災前から論壇の主流であったいわゆる「平時」の経済思想がそのまま震災以後という「危機」の経済思想として持ち込まれたといっていい。対して、インフレーションに基づく復興政策は、「平時」ではなく震災という「危機」の経済政策として必要であると少数の経済学者(小泉信三、津村秀松ら)は考えていた。この「平時」ではなく「危機」の経済政策の必要性は、失業問題についての福田徳三の見解にも見ることができる。前者のインフレーション政策は石橋湛山らによって鍛えられていき、また後者は日本の厚生経済学の誕生を告げるものに進化していった。

 いままで関東大震災をめぐって経済学者やエコノミストたちがどのような活動を行ってきたのかの展望は断片的なものを含めてほとんどなかった。本報告では、清算主義とリフレ主義の対立、「平時」と「危機」の経済思想といった論点に留意しながら、関東大震災の経済学者の活動を(不十分ながら)展望していきたいと思う。

1 関東大震災前後の政治・経済状況

 1923年(大正12年)9月1日、関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲った。関東大震災は、当時の東京市や横浜市を中心にして甚大な被害を与えた(死者・行方不明10万5千人超)。関東大震災による国富への被害は、当時の単位で東京府が約37億円(商品<在庫含む>が約17億円、建物が11億円など)で筆頭であり、そのほかの地域を含めると約55億円に達する(皇室財産の被害額抜かすと約52億円)。当時の(皇室財産などを抜かす)国富総額は、1919年(大正8年)の調査で約900億円だったので約6%の被害だったことがわかる。1923年の実質GNPが118億円ほど(大川一司他の推計)であったので、この被害額はGNPの約47%に当たる巨額な額であった。

 関東大震災前の日本経済はいわゆる「大正バブル」の崩壊をうけた1920年からの経済停滞局面であった。震災の前年(22年)の実質成長率はマイナス2.6%であった。輸出は大幅に減少し、また投資も消費も冷え込んでいた。当時の日本銀行は「大正バブル」の崩壊を、一時的なかく乱と考えていて、むしろ不良企業の淘汰に役立つと、例えば20年当時の井上準之助総裁は考えていた。日本銀行は一時的な臨時融資を行うものの、その政策スタンスはデフレ志向の引締め政策を採用していた。

例えばGDPデフレーターでみると1919年の「大正バブル」の崩壊以後は以下のようになる。

? 図表1 1917年ー33年までのGDPデフレーター(日本銀行『明治以降本邦主要経済統計』) 図表は当面省略

図表1をみると20年以降、24年は震災復興で一時的にデフレーターは上昇したが、あとはデフレ的傾向が増している。また消費者物価指数も同様な動きを示し、24年にわずかに上昇したが、25年以降はデフレ型経済に傾斜していき、24年1.2%、25年マイナス4.5%、26年マイナス1.5%、27年マイナス3.8%、29年マイナス2.3%などとなっていた。

 岩田規久男(2011)は、関東大震災以後の予想実質金利を紹介し、24年以後二桁台の高い予想実質金利が続き、これが震災後にいったん円安にふれた円ドルレートを上昇に転じさせ、円高は経常収支の赤字要因となり、また純輸出は減少して景気後退の要因になったと指摘している。当時の政策当事者の意識は、このデフレ志向的な政策をむしろ求めていたといっていい。このデフレ政策の採用の傾向は「大正バブル」崩壊から震災前でも同じであった。

 「大正バブル」崩壊後の政治状況は混迷を続けた。まず初めての本格的政党政治を標榜した原敬首相が暗殺された。臨時で政友会の高橋是清が組閣(21年11月13日ー22年6月12日)したがまもなく崩壊。その後、経済状況の悪化と並行する形で短命政権が続いた。ちょうど震災の翌日は、加藤友三郎内閣(22年6月12日ー23年8月24日)から第二次山本権兵衛内閣(23年9月2日ー24年1月7日)が成立したばかりであった。山本首相は蔵相に井上準之助を起用したが、彼らの政策はその前の加藤政権に続きデフレ政策を採用していた。そのため震災当初は一時円安になったが、前述の岩田の指摘のとおり高い実質予想金利が円高、デフレを定着させていった。

 この山本内閣は震災復興政策として以下のものを応急的措置として行った[1]。1)「非常徴発令」、「暴利取締令」、生活必需品の関税の減免措置、2)支払延期令(モラトリアム)の採用、3)震災地と被災者への租税の減免や猶予措置、4)預金部資金の低利融資、5)火災保険問題への対応などである(火災保険の地震による免責を保険会社に認めず、政府が保険会社を助成して被保険者への支払いを補うなど)。これらの応急措置的な政策は、当時の経済学者、エコノミストたちの論点ともなっていった。

 震災の復興と復旧は、実行部隊を後藤新平総裁による帝都復興院に担わせ、また財源は公債発行、特に外債発行によって賄った。後藤新平の大胆な帝都復興計画は縮小に縮小を重ね、また政府支出(名目値)の伸びもきわめて低く、緊縮財政のスタンスが採用されていた[2]。このような歴代内閣の大半が、デフレ志向的な政策を続けた背景には、政策当事者の多くが日本の「根本病」を国際競争力の不足からくる経常収支赤字、それによる対外準備の縮減とみていたことにある。彼らは国際競争力は高コスト体質からくると解釈し、物価や賃金の引下げを狙うためにデフレ政策を志向した。またそれを一気に加速させるために採用されたのが、金本位制への復帰であり、これはまた「世界標準」な政策への回帰として国際社会のパスポートともみなされていた。

 山本内閣が虎ノ門事件で瓦解すると、山形有朋直系の清浦奎吾内閣(24年1月7日ー6月11日)が成立したが、見るべき業績を残さず、政友会・憲政会・革新倶楽部の三派による第二次護憲運動で倒閣される。

 第一次加藤高明内閣(24年6月11日ー25年8月2日)は、憲政会の若槻礼次郎が内相、濱口雄幸が蔵相、政友会の高橋是清が農商務相、革新倶楽部の犬養毅が逓信相。諸派は協調性を欠き経済政策の方針は一致しなかった。だが加藤内閣の下では、濱口蔵相の緊縮財政政策と、またドル平価の放棄(変動為替相場制への移行)を行った。しかしこの政権は市場に旧平価への金解禁を目指すと一貫してみなされ、また日本銀行の金融引締め政策の継続とともに、円高は持続した。

 結城豊太郎は、『最近十年に於ける我財界の動き』の中で、以下のようにこの時代を整理している。

 「要するに、震災後清浦内閣成立から昭和2年金融恐慌に至るまでの四年間歴代内閣が一貫してとった為替政策はその動機の何であるかにかかわらず結果は為替相場のつり上げということに帰したのであるから、その影響として一般物価は常に低位に置かれました。すなわち一般金融市場からも為替相場の方からも強く物価に影響したのである。かつ為替相場の低落ということが一種の国辱であるかのごとき心理作用が常時政治家の頭に絶無でなかったこと、また輸入業者とくに紡績業者が率先為替相場の騰貴を希望して運動を開始したことなどもかかる機運を導くのに力があった。しかしこの為替激騰の影響については物価の急落事情が昭和ニ年の金融恐慌を惹起した一般的現象であることも、今日から見れば覆うべからざる事実となったのであります……」[3]。

 やがて高橋是清は、普通選挙法が成立すると農商務相を辞任し、また政友会は陸軍の田中義一が総裁になり積極財政と同時に対外進出政策を積極的に進める政党としての色彩を強めた[4]。そして憲政会単独の第二次加藤内閣(25年8月2日ー26年1月28日)が成立したが、この第二次加藤内閣のときに憲政会の政策(旧平価解禁、財政緊縮・財界整理の方針)はますます清算主義的色彩を強め、金融恐慌、昭和恐慌に向かっていくことになる。[5]

?2 新聞および雑誌の論調

? 関東大震災発生後の新聞や雑誌に寄稿した経済学者、エコノミストたちの発言を整理すると、経済政策関係では、帝都復興院の創設とその活動を伝えるもの、火災保険の支払い問題、焼失地の政府買い上げ問題、失業者救済問題また暴利取締関係が目立つ。また復興資金では内債、外債での調達の配分をめぐる議論、さらには増税で調達すべきだという議論もある。

 さらに注目すべきなのは、震災直前までの最大の経済論争が金本位制への復帰であったため、これを引きずる形で財界整理や財政緊縮や通貨収縮を唱えるデフレーション政策が主流となっていたことだ。このデフレ政策の主張が日本の「根本病」を直すための処方箋として、多くの経済学者の震災復興政策の議論の方向を決めていた。対して少数派として財政緊縮を軍事支出抑制などとして唱えつつ、他方でインフレーション政策(通貨膨張政策)で震災復興を行うことを主張した経済学者・エコノミストたちもいた。このデフレかインフレかをめぐる論争は、やがて旧平価解禁派と新平価解禁派との本格的な経済論戦に発展していく。

 要するに関東大震災後の復興政策をめぐる議論は、「失われた13年」(若田部昌澄)といわれる戦間期のデフレ不況をめぐる経済論争のひとつの通過点であったことは疑いなく、その復興政策についても、特にマクロ経済的な話題に関しては、後の昭和恐慌期の論争点がすでに出そろいつつあった[6]。

 経済学者では神戸正雄(京大教授)の発言が目立つ。彼は市場経済を重視する一方で、政府と民間の緊縮政策、財界整理=清算主義、物価下落(デフレ)政策、早急な金本位制への復帰などを積極的に説いた。また復興資金の調達方法では国債調達を批判し、増税を説いた。彼はまた消費税提唱の日本における先駆者としても知られている。

 『大阪毎日新聞』に924年6月7日に神戸が寄稿した「物価引下が根本問題 一時的犠牲を覚悟せよ」という題名の論説がある。題名でもわかるように、神戸の主張は「清算主義」(経済の非効率を不況を究めることで解消する方策)の典型的なものであった。神戸がこの論説を書いた当時は、日本はドル平価を維持していた。他方で実勢レートはそれよりもかなり低かった。そのために日本政府は対外準備を切り崩さなくてはいけなかった。この実勢レートが円安に向かう理由は、日本の物価水準が外国に比して高いことだと神戸は指摘する(国際的物価平準説)。国際比較で物価水準が現状の高いままでは、産業コストが高く、国際競争力で勝てない。その反映が経常収支の赤字(対外準備の切り崩し→正貨枯渇)だった。

 「物価水準が今のように外国に比して割高である限り何時までも我国経済発展のしようはない。(略)為替を回復せしめ物価を相当に低下して而も我輸出の振興するだけの基礎を作ることに向けなくては永遠の発展は望まれない、物価が低下しては商人として営業者としては損失を被らなければならぬというが其は一時的の損失であって将来永遠に亘る真の利益の土台を築く為めには此一時の損失は避くべからざる犠牲として忍ばなくてはならぬ」

 神戸は物価引下げのための通貨収縮と同時に、財政緊縮政策も必要だとした。これを一気になしとげるのが(いわゆる旧平価での)金本位制への復帰である。この「根本的改善」の前には復興事業は困難を耐えるしかない。

 「復興事業が目の前に横たわるから通貨緊縮は困るともいうが其に多少の困難はあろうとも通貨の自動的緊縮の下に其復興事業を相当に行うより外ない」。

 また神戸は復興資金の調達については内国債・外国債含めて国債発行による調達には基本的に反対した。その理由は資本市場から民間資金がクラウディングアウトするからであった。神戸が代わって提案した復興資金の調達手段は、国債発行ではなく、国民全体の負担による増税であり、それは「国民一般の貢献の精神」に期待するものだった。

 「故にこの際どうしても東京横浜の復興費は公債にのみよる事を中止して、国民全体が負担する所の税金によるべきである。即ち新税を設けるか乃至税率を高めるか=或は財政行政の根本整理を行うのも可い=によって財源を求むべきである。なるほど新税を設け或は税率を高むる事は国民に反対が起るであろうが、しかし前述の国民一般の貢献の精神によればこの際の新税或は増税の如きは決して恐るるに足らないのみならず、一時の苦痛をまぬがるるために募債主義によって憂いを残すよりは大に可なりといわねばならぬ」(「震災復旧につき国民の覚悟」『神戸又新日報』1923年9月19日)。

 神戸の震災時期の主張の中には、20年代後半の昭和恐慌期での経済論戦において旧平価解禁派が提起した主論点(為替の安定、国際的物価平準による国際競争力の確保、デフレ政策による清算主義)が出そろっていたといえよう。しかもこれは神戸だけの孤立した主張ではまったくない。

 新聞、雑誌を中心にして政治家、財界人も多かれすくなかれ同じ主張(デフレ政策)を唱えていた。例えば財界では、神戸とまさに同じ論を唱え続けた代表的人物として武藤山治(鐘紡社長)をあげることができる。彼はまた福田徳三などの学者や財界人たちに呼びかけ、各種の会合をひらき、復興政策の緊縮化、デフレ的政策の完遂を提言した。このとき福田徳三は金本位制復帰については慎重な態度をみせた(後に積極的復帰論者に変化する)。他方で武藤はその後、昭和恐慌期では新平価解禁派になり井上準之助と激しく論戦を展開している。武藤と福田の立場の変化に、この時期の経済論争の変化の激しさをみることもできるだろう。

 その他に経済学者が新聞に投稿ないし電話取材のコメントを寄せたものは、堀江帰一「震災と当面の経済観」(東京朝日新聞、1923年12月1日、2日)、勝田貞次(エコノミスト)「緊縮策か膨張策か」(中外商業新報、1924年6月28日)、坂西由蔵(神戸高商教授)「手形の延期と火災保険問題」(大阪朝日新聞、1923年9月21日)、津村秀松(神戸高商教授)「経済回復が問題」(大阪朝日新聞、1923年9月24日)などである。神戸との対比で注目すべきなのは、津村の論説である。

 津村は、この復興には国家が中心になるのではなく、被災した現地(東京市など)が、復興の計画の担い手になるべきだ、とした。外債を発行して資金調達を行い、それによる都市再生の公共事業を行うことで被災者にも雇用の機会が提供される。また外債をスムーズに調達・償還するためには、政府がその「行政整理」や軍備縮小による財政緊縮にコミットすることである、と津村は説いた。この軍備縮小を中心とした財政緊縮政策と外債中心の資金調達による積極的復興政策は、同時期に『東洋経済新報』主筆石橋湛山によって詳細かつ強力に唱えられた(第5章参照)。

 雑誌への経済学者・エコノミストでの寄稿もこの時期は盛んであった。特に『中央公論』『改造』『エコノミスト』『東洋経済新報』などが経済学者やエコノミストたちの主戦場であった。そこで震災時期に最も活躍していたのが、堀江帰一と福田徳三、そして石橋湛山である。また学術雑誌でも時論コーナーを設けていた京都帝国大学の『経済論叢』では、『エコノミスト』の常連寄稿者でもあった河田嗣郎、新聞を中心に論陣を張った神戸正雄らが震災復興政策について論じていた。

 石橋を除外して、その論調の硬軟はあるが、多くの経済学者たちの復興政策の方向はデフレ政策への志向を持つものであり、緊縮政策の中での復興を目指すものだった。堀江や神戸、そして勝田貞次らは中でも極端な清算主義を唱えた[7]。

 例えば震災によって社屋が焼失するなど甚大な損害をうけた改造社では、社主の山本実彦が『改造』上で震災特集を連続して組み、そこで堀江や福田らの経済学者が論陣を張った。例えば震災直後に発刊した大正十二年の十月の「大震災号」では、福田徳三「復興日本当面の問題」「虐殺者と其の曲庇者、讃美者」、堀江帰一「破壊された東京市」、河津暹「震災と経済恢復」、小泉信三「震災所見」などが掲載されていた。福田や小泉のこの時期の震災復興への関わりについては章を改めて論じる。この『改造』も山本実彦自らが清算主義的思考の持ち主であり、その考えは編集方針にも震災以降色濃く反映していく[8]。また震災時期において経済学者たちが最も実践的な活動をしたのは、この『改造』を起点にしてのものだった。その活動については次章で解説する。

?3 “現実”との接触

 雑誌や新聞への寄稿以外で、当時の経済学者はどのように関東大震災とその後の状況の中で振る舞ったのだろうか? 多くの経済学者たちは東京市やその周辺にいたため、震災の被災者であったり、また同時代的な目撃者でもあった。例えば鎌倉でかろうじて自宅の倒壊を免れた小泉信三が鎌倉での復旧活動の観察記録を残している。また当時兵役に就いていた住谷悦治(同志社大学助手)は、戒厳令下の緊迫した兵士たちの様子を日記に書き残し後にそれを公表した。

 小泉信三は、鎌倉町では罹災共同避難所を立てたが、ほとんど使用されなかったという。その理由は、被災した人たちが自らの財産(土地や半倒壊の家屋など)に執着し、焼跡や焼跡の見えるところにバラックを建てそこで生活したためであるという。また自身も含めて鎌倉町内の有志者たちが町当局者に意見を具申するときに、しばしば「国家社会主義的」な考えに傾きやすいことを指摘している。

 「町において食料の独占的配給をなすべしということは無論第一に考える。次に町内に存する建築材料を町が全部管理して、需要者は町役場の認可をうけてこれを買うと共に、町役場はその一部分を自ら利用して避難小屋その他の建物を設備しなければならぬという説も当然唱えられる。町で小屋掛けするとすれば当然町が労力を徴発しなければならぬ。それをするにはどうするがよいかということが次いで議せられる。要するに有志者の意見は、交換経済が一時破壊せられた現状から出発して、経済的恢復を交換経済的方法によらずに、一つの中央当局者の命令によって行われしめようとする傾きがあるのである」。[9]

 しかしこのような「中央当局者」の管理は経済の非効率を生みだすし、実際には有志者が議論しているうちに、鎌倉町民がそれぞれ「自家の状態を改善しようとする努力」によって「一日一日活気を帯びさせて来た」と報告している。

 震災当時、宇都宮師団の六六連隊に所属していた住谷悦治の目撃した風景は小泉とはまったく異なるものだった。それは秩序よりも混乱である。

 「関東大震災のとき「社会主義者と朝鮮人が東京で暴動を起こしているから帝都防衛のために出動」という命令で実弾十三発手渡されて、兵隊は緊張して出動した。九月一日の夕ごろ、連隊長以下、軍の正式出動のものものしさを初めて見た。年末に帰隊した兵隊が消灯ラッパのあと、寝台でヒソヒソ言い合っている。「中隊長が青竹で殴りつけていた男は早大生で、あとで中隊長と同じ町の者だとわかった」とか「××駅のプラットフォームで、土地の自警団の青年に、避難民に交じっていた朝鮮人が三人引きずり出されてなますのように切り刻まれたなあ。ひどいもんだ」という話。あのとき、目もあてられぬ残忍な出来事は数かぎりなかった」[10]。

 住谷は東京帝大時代の師であった吉野作造に兵隊での体験を手紙で伝えていた。また住谷はこのときの体験がきっかけとなり、自分の進むべき道に苦悩した。

 「大学で学んだ社会理論が、現実と矛盾していることを胸の痛くなるまで痛感し(略)経済学史という歴史を研究しようという第一歩で、学問と現実との間の矛盾を感じて悩みはじめた」[11]。

 住谷の抱えるこの「矛盾」は、彼を単なる経済学史研究者に留まらせなかった。やがて住谷は経済学史研究によって体得した「歴史的方法」とジャーナリズム活動の接点の中で、この「矛盾」に対峙していくことになった[12]。

 ところで、関東大震災のときの経済学者の最も活発だった現実との接触は、住谷悦治の師であった吉野作造が中心となった二十三日会の活動である[13]。当時の総合雑誌『改造』の社長山本実彦が音頭をとったものであり、先に述べたように山本は震災について社運をかける意気込みでこの問題に取り組んでいた。山本の意図は、政府の復興政策への対案提出であった。二十三日会は、堀江帰一(慶應義塾教授)、福田徳三(東京高商教授)、政治学者の吉野作造(東大教授)が会を主導した。経済学者は、堀江と福田だけだったがそれでもこの会の活動の中核であり、関東大震災の中でただひとつ確認できる経済学者たちの「政治」への接触となった。二十三日会では、失業救済、火災保険問題、朝鮮人と社会主義者の虐殺事件―後者は特に大杉栄事件―について討議し決議した。決議内容は不明であるが、中心メンバーであった福田、堀江、そして吉野のその前後の発言からおおよその内容は推測できるだろう。失業救済、火災保険問題については本論文の第5章で福田の意見を紹介する。また朝鮮人と社会主義者の虐殺事件については、特に前者について「罹災同胞慰問班」の行った朝鮮人虐殺実態調査の公表をめぐる吉野作造の試行錯誤や当時の論説での強い批判に表れている[14]。また福田も『改造』(1923年10月号)に「虐殺者と其の曲庇者、讃美者」を寄稿して当局批判を行った(しかし伏字が多く無残な形でだが)。

 他のメンバーは、伊藤文吉、渡辺?蔵、千葉亀雄、吉坂俊蔵、鶴見祐輔、永井柳太郎、中野正剛、大川周明、大田正孝、山川均、山本実彦、松本幹一郎、桝本卯平、小村欣一、小村俊太郎、権田保之助、北聆吉、城戸元亮、三宅雪嶺、三宅驥一、下村宏、鈴木文治、末広巌太郎、饒平名智太郎が、第一回の会合(9月23日)に出席した。堀江と福田は第一回会合に出席し、座長を堀江、会合の二十三日会の名称を福田がつけることになった。吉野は欠席した。案内は出したが欠席したものは、伊藤正徳、石橋湛山、鳩山一郎、長谷川萬次郎、馬場恒吾、穂積重遠、富田勇太郎、吉野信次、田沢義鋪、大山郁夫、安部磯雄、青木得三、杉森孝次郎などであった。『改造』の執筆者を中心にした当時の知識人大集合の感がある。

 さらにその決議をもって、当時の首相、内相、法相に手渡すことをこころみる(だが多くは不在であり間接的に渡すに留まった)。内相官邸では岡田忠彦警保局長とm懇談している。

だが、新聞や雑誌における関東大震災の関連記事は、震災が起きた九月から翌年二月にかけてがピークであり、それ以降は急速に関連記事が減少する。『改造』でも十月号から翌年二月号にかけて集中的に震災関連の記事が掲載されていた。もっとも改造社は、24年5月に『大正大震火災誌』を発刊して気を吐いている。しかし二十三日会は活動期間が短かった。十月二十日の諸決議を閣僚たちに手渡して以降は自然消滅したようである。

?4 小泉信三の思想的展開

? 東北関東大震災の影響でさまざまな文化的事業やイベントが中止・延期になった。また最近では、石原慎太郎東京都知事の発言にあるように、花見の自粛を要請するなどいわゆる歌舞音曲を「不謹慎」だとして制約する動きもある。他方で、さまざまな芸能人、アーチストたちの募金活動や支援イベントも連日のように報道されている。

 かって関東大震災のときに、当時慶応義塾の教授であった小泉信三は、被災した人たちの実態調査を同僚の堀江帰一とすすめるかたわら、テニスや歌舞伎など文化的な行事に多くの精力を割いていった[15]。いまから10年以上前に、この震災当時の小泉の行動を知ったときに、被災調査よりも次第にテニスなどの文化活動に忙殺されていく小泉の姿勢を、私は批判的に考えていた。しかしそれは早急すぎた判断だったかもしれない。被災された地域の人たちのためにも、経済は回り続けなければならないし、その中で文化的な経済活動は重要な位置をもつ。

 もちろん流通や生産の中で文化的な活動が重要性を持つだけではない。人々の生きる力、またはもう少し限定しても人々の厚生に好ましい影響を及ぼすだろう。小泉信三は、そもそもイギリスの経済学者スタンリー・ジェボンズの経済学から影響をうけ、「労働は苦痛」であるという観点からいくつかの論文を書いたのが彼の学者キャリアの始まりだった[16]。「労働が苦痛」であるということの反面は、「余暇は快楽」である、という発想が帰結する。この当時の小泉は「労働は苦痛」であるから、労働をなるべく最少の犠牲として、最大の効果をあげるという、生産性に限定して自分の関心を磨いていた。当然に、反面では「余暇は快楽」という面の効率化が考慮されなければならないが、この論点は事実上忘却されていた。

 ところがこの小泉の考えに転換をもたらしたのが関東大震災であった。これは小泉のとって二段階の思想の展開を伴ったといえる。ひとつは、生産面だけではなく、人の経済生活の厚生面への注目、もう一つは人間の価値についての認識である。

 彼は震災当時、鎌倉に住居をかまえていいて、その地で被災してもいたことはすでに書いた。この被災による薄明かりの中で、彼はアーサー・セシル・ピグーの『厚生経済学』を読み出し、ピグーが第一次世界大戦を背景にして書いた『戦争経済学』に読書はすすむ。ピグーからの知見を基にし、『改造』の震災特集号に寄稿した小泉の論説「震災所見」には、「災害経済学」(小泉の発言)の基本的な考えが開陳されていた。

  「罹災者のためには、価格の低廉を保障しながら、他の一方において利潤によって生産増加を刺激しようとするには、国家がその間に介入して、生産者の利潤の一部または全部を自ら負担するということも必要になって来るだろう。種々の形における補助金支給はそれである。わが政府も既に生活必需品並びに建築材料の輸入関税を免除するに決した。それは国家が関税収入の一部を放棄して罹災者のために必要材料の低廉を保障したものとも見ることができる。同軌の事は国内産物についても行われるかもしれない。課税免除が不十分だとすれば、積極的に補助金を交付することも或いは行われるかも知れない」[17]。

 この国家の負担をファイナンスするのは、大きくふたつの方法がある、と小泉は指摘する。ひとつは「納税、募債、寄附」であり、もうひとつは「インフレーション」をおこすことである。

  「復興のためには政府及び私人は殆ど未曽有なる勤務、物品の購買を行わなければならなぬ。この購買が全部国民の一部の購買力を割いて、これを他の部分に移すという方法(納税、募債、寄附)によって行われることは最も望ましいが、事実においてその完全に行われることは期待することが出来ない。そこで必ず国民中の他の部分の購買力を削減すること(或いは十分削減すること)なくして、政府及び罹災者のために購買力を造り出すという方法が択ばれるだろう。即ちインフレエションである」[18]。

 後者のインフレーションを起こすこと(いまでいうリフレーションである)には欠点もある、と小泉は指摘する。

  「しかしインフレエションは外国から必要材料を輸入することの已むべからざる今日において、わが邦人の対外購買力を減殺する大損がある。この為替相場の逆変を防ぐには如何なる方法を取るべきか。凡てこれ等の点においては欧州大戦の経験に学ぶべき多くのものがある」[19]。

 「この為替相場の逆変を防ぐには如何なる方法を取るべきか。凡てこれ等の点においては欧州大戦の経験に学ぶべき多くのものがある」とは次のことを意味すると思われる。欧州大戦において各国は相次いで金本位制から離脱した。と同時にイギリスなど各国は自国通貨をドルに固定化することを選択した(ドル平価)。またイギリスなどでは戦費調達を政府紙幣を発行することで実施していた。政府紙幣の発行によってイギリスはアメリカに比べて高いインフレを経験した。実際のドルポンドレートは、法定のドル平価よりもポンド安ドル高だったろう。そのため実勢よりも高い水準の固定為替レートを維持するために、イギリスの保有するドル準備が減少する可能性があった。だが、戦時中、イギリス政府はアメリカから事実上無制限のドル借款を行うことができた。このため第一次世界大戦中、イギリスは、(アメリカに対して)より高い物価水準、貿易赤字、実勢よりも高い水準のドル平価という状態を維持することができた。これらの知見は、小泉が「震災所見」で参照していたアーサー・C・ピグ―の『戦争の経済学』(1921年初版)に解説されていた[20]。

 ところで実際には関東大震災当時の日本はすでにドル平価(100円=50ドル)をとっていた。例えば当時の井上準之助蔵相は小泉の示唆の通りに、震災以後も震災対応の輸入を奨励する一方で円安を防ぐために、このドル平価の水準を維持すると公言していた[21]。ただ井上蔵相はインフレーション政策をとることはなかった(というよりもとれなかった)[22]。

 小泉は続けて以下のように書く。

 「しかし根本において戦費は直ちに富の滅失を意味しないのに、災害は有体財の破壊であるから、災害を処するには自ら戦争を遂行するのと別の処置を必要とする点が多かろう」[23]。

 だがこの「別の処置」は具体的には提示されることはなかった。小泉は、「ピグウの『戦争経済学』に倣って、平時経済学に対する『災害経済学』を編むのは学者今後の任務であろう」とするのみであった[24]。

 ところでこの小泉の見解は、彼の経済学の師であった福田徳三から厳しい指摘を受けることになる。福田は、小泉の見解があまりに有体財の損失だけに傾斜していると批判した。福田は小泉と同じく被災者の実態調査を行い、それを日本で最初ともいうべき災害経済学の書『復興経済の原理及び若干問題』(1924)にまとめた。この本の中核にあるのは、有体財(物)の損失よりも、被災した人間性の損失とでもいうべきものに多くの紙数を割いたことにある。

 福田は、小泉が人間性の損失を軽視していると批判したのだ。これに対して、小泉は自らの非を率直に認めた[25]。ここで小泉の思想的転換の二番目が訪れたと私は理解している。では、この人間性の損失の問題をどう経済学の中に組み入れたのだろか? 

 実は小泉はそういう作業を経済学の外で実践したのではないだろうか。それがテニスや歌舞伎、野球などさまざまなスポーツや文化活動への傾倒である。明らかに関東大震災以降、テニスを中心にしてその活動は公にも拡大していく[26]。その活動のひとつの帰結として、(小泉信三が関与したいたとされる)天皇皇后の軽井沢でのテニスの出会いもあるのだろう。あるいはさらに小泉自身の国家観との関連もみるべきかもしれない。だが、この側面の研究については他日に期することにしたい[27]。

[1] 岩田規久男(2011)の整理を参照。

[2] 鈴木正俊(1999)によると、名目値でみた政府支出の対前年度比は、1923年がマイナス5.3%、24年が0.1%、25年がマイナス2.6%となっている。

[3] 結城豊太郎(1931)181頁。結城は震災当時、安田銀行副頭取。高橋亀吉・森垣淑(1993)がこの結城の発言を当時の為替相場の変動のまとめとしたことに本稿も依る。

[4] 政友会も拡張的な財政政策と同時に対外進出を積極的にすすめる政策を志向していたと、安達誠司(2006)は指摘している。この背景には自由貿易制度という当時の対外進出政策と真逆の政策オプションを、政友会が支持基盤とする地方層が農業保護の観点から容易に受け入れることができなかったためだと思われる。

[5] 昭和恐慌期の経済・経済政策については、岩田規久男編(2004)を参照。

[6] 若田部昌澄(2004)。

[7] 20年代の雑誌ジャーナリズムでの清算主義については、田中秀臣(2004)を参照。そこではまた堀江帰一、福田徳三の清算主義が詳細に説明されている。また若田部昌澄(2004)では勝田貞次の清算主義についての詳細な説明がある。

[8] 山本実彦の清算主義的思考と『改造』の編集方針との関係は、田中秀臣(2004)を参照。

[9] 小泉信三(1923b/1968)449-50頁。

[10] 住谷悦治(1974)178頁。

[11] 住谷悦治(1978)

[12] 住谷悦治の経済学史研究とジャーナリズム活動の接点については、田中秀臣(2001)を参照。

[13]以下の二十三日会についての記述は、松尾尊兌(1995)に主に基づく。

[14] 吉野作造の朝鮮人虐殺問題についての活動と言論は、田中秀臣(2001)を参照。

[15]今村武雄(1987)114頁以下を参照。

[16] ジェボンズの翻訳は、『経済学の理論』と題され、小泉信三(1912/1969)に収録。

[17]小泉信三(1923b/1968)453頁。

[18]小泉信三(1923b/1968)453頁。

[19]小泉信三(1923b/1968)453頁。

[20] Pigou,A.C.,(1921)。

[21] 竹森俊平(2006)は当時の井上のドル平価維持について次のように指摘している。「しかし、井上蔵相は、自らの説明によると、震災からの復興のために輸入を奨励し、輸入物価の高騰を招かないことを考えて円安を防止する方針を採った。ただ、これはあくまでも「建前」の議論であろう。当時の井上の言動から考えて、本音は円安を招くことで、ラモントやストロングからの批判を招きたくないということだったのではないか。いずれにしても、井上が固定為替相場をそのまま維持しようとしたことは確かであり、大正12年(1923年)下期は為替レートがほぼ100円=49ドル(1ドル=2.04円)の水準で推移していく。もちろんこのような実勢に合わない円高を維持するためには、日本は正貨準備を放出して、足りないドル供給の穴埋めをしなければならない」(竹森俊平(2006 上)332頁)。

[22] ドル平価を実勢よりも高めで維持するためには、当時の日本では正貨準備を切り崩すことで過大なドル需要にこたえるためドルの供給を増加させる必要があった。すると市場から円資金が吸収されるためにインフレ抑制的に機能するだろう。

[23]小泉信三(1923b/1968)453頁

[24] 「平時経済学」が災害においても中心となり、それが災害復興を困難にするという見解を、田中秀臣・上念司(2011)、田中秀臣(2011b)は提起している。

[25] 小泉は福田に書簡でその非を認めた。この小泉の書簡は匿名として福田徳三(1926)2118-9頁に収録されている。

[26] 小泉信三(1953)における大学生活に関する記述を参照。

[27] このテニスと国家(天皇家との関わり含む)、そして余暇による生活の厚生改善などの論点については、山口昌男(2005)を参照。