一月ほど前になるが、このreal-Japan.orgでも多くの論考があるCFW(Cash for work)についての特集を含んだ雑誌『atプラス』(太田出版)の第八号が公刊された。CFW関係では、永松伸吾、田端和之、山崎義人、稲葉振一郎の各氏が寄稿している。

 永松論考「キャッシュ・フォー・ワークの提案 被災地復興のために地元雇用を!」は、全体の宣言書であり、また基本的な提案を含むものでわかりやすい。ただ永松氏のマクロ経済環境は、日本が一種の投資機会の飽和状態にあり、生産性の向上がみこめないことを前提にしている。このような供給制約によって日本の生産性向上が見込めないという説は端的に誤りである。おそらく永松氏のこの主張だと、デフレ、成長率の低下、失業率の増加という3つの現象を同時に説明することはできない。

 従来からこのような供給制約に直面している日本経済がさらに東日本大震災でその制約が厳しいものになったという理解だろう。そうなると永松氏の主張をは違いおそらくデフレではなくインフレが加速化する可能性が大きい。もちろん従来から供給制約型の経済ではないという理解に立てばいまのデフレの継続は説明できることはいま書いた。僕からすると復興経済の大前提のマクロ経済観が歪んでいては、ミクロ経済政策の構想自体も歪みを免れないように思う。ここらへんの議論がCFWを推す面々には無頓着に放任されているように思えるのはいただけない。

 さてCFWとは、「災害対応・復旧復興事業などに被災者を雇用し、対価として現金を支給するプログラムのこと」である。また「CFWは、被災者に収入を得るための機会を提供する重要な装置であり、そのことが、地域の復興に対する意欲を高めると同時に、労働を通じた生きがいや希望、仲間との情報交換など、望ましいさまざまな効果が期待されます」(64頁)とある。

 細かい内容は本書のCFW提案書を参照されるべきである。永松論文では、特に1)平時経済活動までのつなぎであり、賃金などは最低賃金よりも低い、2)健康な男女が対象、3)労働を強要するものではない、4)被災地におけるすべての活動を有償の労働に切り替えるものではない。さらに永松氏はCFWの従来の適用例(途上国の経験)とは異なり、第一に、サービス業務にも拡充、第二にCFWの共通のプラットフォームを市町村ごとに設置することなどが指摘されている。

 ところで、被災者の人たちが仮設住宅でその避難生活をおくるうちに、特に働く場所を見出さない人たちの人間的価値が毀損していく、という指摘は、関東大震災のときの福田徳三の罹災調査でも強く指摘された。CFWの枠組みは、時代を超えて、この福田徳三の問題意識を継承しているものといえるかもしれない。

 ただ現状の被災地のボランティアの多くの方々は若い男女も多いが、また中高年(しかもかなり高齢者)も多く貢献しているのではないだろうか? いや、本来が高齢化がすすむ地域では、もとから社会的な紐帯を重視しやすく、その再建をめざす方々にはかなりのお年寄りがそのボランティアな活動の中心かもしれない。他方で、CFWが若い男女に関してそのボランティア(社会的インセンティブ)の多くを金銭的なインセンティヴで代替することが、その若い男女たちの社会的インセンティブやまた、他方で中高年の社会的インセンティブ自体を低下させてしまう可能性はないであろうか? 

 例えば芸術活動を純粋に楽しむ人が、それが経済的報酬に結びつくことで、その動機が低下することもしばしば観察される。またこれはいまだ実証されてはいないが、同じボランティア活動をする人を若さと健康(年をとることは多くの病気を抱えていくことでもある)で線引きをして、他方は金銭的インセンティブを与え、他方は与えないことが、前者のみならず、より後者の社会的インセンティブを低下させはしないだろうか? お金でボランティアを置き換えることの危険性はどの程度のものがあるのだろうか?

 もちろんボランティアにも金銭的な支援は必要だろう。交通費の支給補助や、休暇の取得などへの配慮などはもっと積極的であっていい。しかしボランティアとその活動の成果を金銭的報酬に結びつけることは、永松提案も含めて多くの論者があまり配慮していない効果があるのではないだろうか? これは実体のない危惧でしかないのだろうか?

 さて話をもとに戻すと、もし永松氏のように供給制約が強く、また財政的な制約もつよければ、おそらく逆説的に社会的インセンティブによるボランティアが一時的だけでなく、長期にさえ必要になってしまうかもしれない。例えば増税で復興資金をファイナンスすると主張する人たちの多くは、要するに「復興にはそんなにお金を政府はだせない」といっているに等しい。そのような状況では、社会的インセンティヴの強さ、例えば社会的関係資本の強さに大きく依存せざるをえないかもしれない。そうすると、その限界的な選択において、CFWというのはむしろ社会関係資本の醸成よりも、CFWで支援をうけたものとうけないものとの「分断」をもたらす可能性もあるのではないか? 

 僕は、所得補償としての金銭的な支援は、数日前にここでも書いた原田泰氏の提案のように、各人への現金の「ばらまき」を主眼にするべきだと思う。雇用を被災地で求めるのか、求めないのかの選択もこの「ばらまき」でかなりその余地が拡大するだろう。僕にはCFWというものは、あまりに社会関係資本に依存し(その結果それを分断する危険性もあり)、またあまりに人を被災地にしばるように思える。こう書いては書きすぎだろうか?