西原理恵子氏の本はいままで縁がなくほとんど読んだことがない。一冊だけ文庫になった『パーマネント野ばら』を読んで感銘をうけたことがあるだけだ。この本も勝間和代さんが解説を書いたということを知らなければ手にとることはなかったろう。

 本書のテーマは「カネ」だ。「カネ」によって人間が「人を人でなくしてしまう」ことを著者は、自らの人生を振り返りながらあけすけともいえる語り口で描いている。本書はまた「貧乏」と「借金」と「ギャンブル」の三位一体の物語でもある。特に著者が高知で暮らしていたころの記述は鮮烈で、また「貧乏」がいかに「人を人でなくしてしまうか」、貧困の循環、閉鎖された世界での因果応報的人生を、驚くほど簡潔な言い回しで表現している。

 例えば、経済学も「カネ」がひとつの大きなテーマだ(実はカネで扱える部分は経済学の一部でしかない)。特に「貧困」は長く扱われてきたテーマだ。戦前にベストセラーになり、戦後も売れ続けた経済学の本に河上肇の『貧乏物語』というものがある。僕のいま持っている岩波文庫版は97年現在で68刷りもしている超ロングセラーであり、いまも入手可能だ。しかし前から思っていたのだが、この河上の描く「貧乏」はちっとも貧乏には思えなかった。例えば、西原氏の本にも書かれているが、貧乏であっても貧しいものはさらに貧しいものを軽蔑し、その足をひっぱぱる。また少しでも浮上しているものの足をよってたかって平気でひっぱるし、またひっぱるものもひっぱられるものもやがてぐだぐだになっていく世界だ。ところが河上の本では、貧乏というものはせいぜい国家の生産力をあげる上での障害でしかない。言い方を変えれば、貧乏をできるだけましな貧乏にしてぎゅうぎゅう油粕をしぼるように国家に貢献させる、というのが実は河上の目指してしまったものだ。もちろん河上もそんな自分の貧乏観に我慢がならなかったのだろう。思いやりのある人だとも、複雑な国家観を抱いた人だともいわれている。やがて過去の貧困観を否定しマルクス主義に入る。今度は貧乏がイデオロギーのもとで油粕までしぼられるはめになる。最晩年、河上は日本が決して実現しえないだろうようなユートピア国家像を抱いて死んだ。それは言葉の正しい意味で自己欺瞞だと思う。

 たまになんで河上の貧困観に欺瞞的なものを感じるのだろうか? と思うことがある。西原氏の本を読んで思ったことがある。それは河上は「逃げる」選択が不在だからだ。国家の中に貧困がある、だから国家の中で解決する。社会の中に貧困がある、だから社会の中で解決する。あるいは既存の国家の中に貧困がある、だからそれを超えるちょっとだけ違う国家(体制、イデオロギー、ユートピア)の中で解決する、という思想でしか、河上は貧困(の解決)を考えることができなかった。この河上のどこがそんなに悪いのか? おまえ(田中)も含めて経済学者はみんなその種の試みをしているのではないか? という指摘もあるだろう。

 西原氏のこの本では、高知の生活を「逃げる」ことが貧困からの「自由」の必要条件だったと思う。彼女はこう書いている。

「競争社会から落ちこぼれたっていい。日本を出ちゃってもぜんぜん、かまわない。いまいるところがあまりに苦しいのであれば、そこから逃げちゃえ! 「いくらがんばっても、どうにもならない」ってことを知ることは、とても大事なことだと思う。あまりにも疲れてしまっているなら、ちゃんと休む。」

 「逃げる」ということは、大きくいえば国家や社会の枠内から逃げることだ。でもユートピアとかに逃げ込むのではない。「次の一手」になるような生活の場に逃げることだ。そのためには恋人、家族、友人、親戚縁者などの紐帯からも逃げることもいとうべきではない。「貧困」のぐたぐたの逃れ難さはこの紐帯に起因することが多いからだ。もちろん、逃げることが可能になるにはいろいろ準備や運や多少の「おカネ」も必要だし、誰もが簡単に逃げ出せるわけでもない。逃げることが万能の法則でもない。当たり前だ。だがこういうとんずらの作法こそが僕には一番重要に思えてしまう。