?今回の対談のお相手である多根清史さんは主にアニメやゲームについての論説や著作を多く書かれています。日本のこの分野の第一人者であり、僕もその書かれたものから恩恵をうけている一人です。今回は、多根さんの最新作のひとつである『教養としてのゲーム史』(ちくま新書)を中心にして、日本のゲームの進化を語っていただきました。同時に、多根さんの抜群のユーモアセンスと、また今回の対談でも強調されていく、新しい世界をみていくんだ、ひとつのことに執着するよりも絶えず最前線をみるんだ、という姿勢には、とても学ぶべき点が多いと思いました。

田中:今日は多根さんのゲームにかける情熱を中心にお聞きできればと思ってます。

多根:人生そのものですからね。

田中:多根さんの著作を最初に拝読したのは、『宇宙世紀の政治経済学』(宝島社)というガンダムの世界をパロディ化しながらも政治経済学的薀蓄を駆使した作品でした。これは当時、とても感銘して、僕は二冊も持ってます。付箋用と保存用で。

多根:ありがとうございます(笑)。

田中:このユーモアセンスあふれる著作の次に読ませていただいたのが、今年(2011年)の最初に、ロフトのトークイベントでご一緒させていただく契機になった『ガンダムと日本人』(文春新書)。これは前作とがらりと変わって、シャア・アズナブルは小沢一郎である、という大胆な日本の政治や歴史の読み替えを含んだ、仮構の歴史=ガンダム世界と、現実の世界=20世紀から今日までの世界史の交差を試みた刺激的なものでした。ほとんど笑いなしというのも前作とまるで違う印象です。この後に『日本を変えた十大ゲーム機』(ソフトバンク新書)を読みました。これはゲームをハードの側面から追ったものですね。

多根:そうです。前回はハードの歴史、今回の『教養としてのゲーム史』は、ソフトの歴史にしぼろうと。前作は文化史やサブカル史も組み込んで考察したんですが、今回はソフトとアイディアの進化の系統史をひたすら追うという絞り込んだ本です。

田中:ただ『教養としてのゲーム史』は、ソフトとハードの相互影響関係がよく解説されていて、それも勉強になりました。多根さんと僕は年齢は若干離れてますが、それでも本書に書かれているようなゲーム史については同時代人として生きてきたと思います。ただ僕は90年代半ばぐらいでアーケイドは卒業してますね。特に『ストリートファイターⅡ』の動きについてけなくて(笑)。

多根:ゲーセンにもいらっしゃったんですね?

田中:ええ、行ってました。特に80年代の終わり二年間は、働くのをやめて自宅警備員。いまでいうニートに近い状態でしたね。

多根:ファミコンとかよくやってらっしゃった。

田中:えーと基本的にその二年間は家で読書とゲーム三昧です(笑)。ほんと、いかがなものかという生活をしてました。そのときは、『ファイナルファンタジー』(FF)とか『ウィザードリィ』、『ドラクエ』といったRPG(ロールプレイング)を熱心にやってました。特に『ウィザードリィ』にははまりまして、ベニー松山さんの関わったウィザードリィ攻略本とか読んだり、もっと若いころに読んで感動していた『カムイの剣』の作者矢野徹さんが『ウィザードリィ日記』を書いていたのにも驚きました。

多根:いまでも70,80代でも『バイオハザード4』などをやってらっしゃる方のはしりですね。ボケ防止になるとか書いてらっしゃった(笑)。

田中:これから僕も必要かもです(笑)。『ウィザードリィ』は、文字とドットの粗い絵、そしてマップを自分で書いて地下迷路(ダンジョン)を探索するというゲームで、いともあっけなく死んでしまったり、ムラサメだとかミフネだとか怪しい日本風表象が採用されているものでした。

多根:当時はユーザーに荒削りなまま投げて、おれたちについてこいや、というゲームが多かったですね。ユーザーもその期待に応えられるレベルの高い人が多かったこともありますが。

田中:ただ僕とゲームの黄金時代は、ストⅡに動体視力や反射神経がついていけず終了。時間とつぎ込むお金のバランスも狂ったのもあるんだと思います。

多根:あの当時、ストⅡなどはインカム率を重視して、短時間に多くのプレイヤーを遊ばせる回転率を優先していました。その結果、一人で遊ぶゲームが崩壊した。ゲーム愛好家を切り捨てた側面もありました。

田中:シミュレーションゲームがその後展開していきますが、これに僕はキャッチアップできなかった。さらに『教養としてのゲーム史』で扱われてらっしゃる90年代後半から現在までの、例えばビジュアルノベルなどの世界は最近まで完全に関心外でした。

多根:ただ任天堂などは「スーパーマリオ」シリーズなどを続けて親子二世代とか、ファミリー層の開拓をして昔ながらのユーザを切り捨てずにやっていく側面もある。

田中:『どうぶつの森』とかもそうですね。これは僕も少しだけやりましたが、目的がはっきりしないコミュニケーション本位のもの。

多根:個人を狙ったのではなく、任天堂がファミリー向けの集大成としてつくった。子供の寝ている時間にしか帰れないお父さんの嘆きをくみ取って、一つのゲームの中で時間差があっても一緒に遊べるという(笑)。ゲーム性としてのコミュニケーションを重視してますね。

田中:これから構造的に、人口減少と高齢化が急速にすすみますが、ゲーム人口の減少を抑制するためにもファミリー層の取り込みが重要なんでしょうね。

多根:さきほどのストⅡですが、競技能力で優劣を競いすぎてしまい、そこでユーザの切り捨てがおきてしまった。それを拾ったのが、『信長の野望』から始まった、反射神経の要らない国内のシミュレーションゲームでした。またRPGは閉じた方向に複雑化していき、例えばFFの中二病的な設定とか、よくわからない英語表記とかを使ってだんだん先鋭化もしていった。日本は一人用RPGを進化させてきたただ一つの国といっていい。ある日、世界からおまえの国のRPGはなぜ世界を救う話ばかりなのかといわれる(笑)。海外のRPGは、このFFの中二病的世界観とは対照的ですね。『ウィザードリィ』とかは、インチキ武士道(笑)も西洋ファンタジーも同居するゆるい世界観からはじまっていく。『ウィザードリィ』的なわりと平たんなのっぺりしたところを歩いていく。ウラの奥深い設定よりも、オモテにみえるものがすべてだ、というもの海外の特徴です。つまり海外のRPGはより世紀末的なリアリティを追求していた。何もフォローされない世界、予備知識もないけど、とりあえず生きていけ、みたいなのが至上命題。肌感覚の厳しいリアリティが支配していますね。

田中:なるほど。その日本と海外のRPGの世界観の違いはやはり文化の違いかもですね。始まりから終わりまでが一定のルールで細かく設定されている「規制型」文化と、他方でおおざっぱなフィールドだけ与えてあとは自分たちで選択せよ、という「自由選択型」の文化の対照といえますかね。例えば、日本の規制型文化の代表は、赤信号ですよね。これほど細かく設定されたルールはない。他方で欧米は、サークルを構築するだけで、あとはどこに行くかは自分たちの判断次第みたいなもの。FFは規律型で、『ウィザードリィ』は自由選択型でしょうね。

多根:FFやドラクエといった日本的なゲームは目的がちゃんと設定されていてそこに向かってルールで規制されている。例えばRPGではないですが、マリオなども、「こことぶと危険」みたいなことを、穴や断崖絶壁という記号ではっきりと描いている。誰でもわかるように。ゲームというのはふだんの日常に近い風景を好むので、まさに「白線の内側に並んでください」的な規律型が採用されているのでしょう。それと日常を記号化しやすいというか、記号化を好む国民性も貢献している部分が大きいかもです。

田中:多根さんの今回の『教養としてのゲーム史』は、おそらく日本で初めての本格的なゲーム史だと思います。多根さんのものに近い貢献としては、桝山寛氏の『テレビゲームの文化論』(講談社現代新書)がありますが、どちらかというと桝山氏のは文化論的要素が強いようです。それに対して、多根さんのはソフト中心で、それにハードの発展との相互影響関係を進化史的にみたゲーム本来の発展だけに絞った王道タイプですね。

多根;文化論的なものは排除しましたね。サブカルチャーの影響は当然あるとしても、一度は純粋に「ハードとソフトの相互作用」の系統樹をクリアにしておきたいと思ったんです。

田中:文化論的なゲーム論の代表としては、僕はすぐ中沢新一氏のゼビウス論(『雪片曲線論』(中央公論新社)所収)を想起します。

多根:『ゼビウス』のところは読んでますが、今回の本では使わなかった。文化を語るとどうしてもそっちの方にひっぱられて、ゲームがないがしろになってしまうように思えた。ゲームを文化を語るためのだしにしたくない、ゲーム自体を語りたい、というのが僕の考えです。

田中:『ゼビウス』については、多根さんはスクロール技術に注目している。『教養としてのゲーム史』の『ゼビウス』についての記述には、多根さんの一貫したゲームをみる視点が典型的に表れているとおもいますので、少し引用しますと、「『ゼビウス』の後追いをしたゲーム群は、最初の「ストーリー」があり、そこからステージ構成や敵の配置を導き出したのではないか。しかし、ゲームはあくまでもテクノロジーの賜物である。新たなスクロールという技術がもたらした広大さ、流れ行く時空の連続が物語性を求めたのである。大風呂敷を広げたストーリーが先行しては、ハードの表現力とちぐはぐになってしまう」(同書、89頁)。つまりハードが、ソフトとそれを使用する人間の想像力を豊かにしていく、という相互関係が重要なのだと。

多根:『ゼビウス』がやはり日本のゲームの歴史に大きな「情報化」という画期を作ったのは間違いないでしょう。『ゼビウス』には隠れキャラがあるのが有名ですが、それを知らなくてももちろん面白い。また隠れキャラなどの情報を仕入れても面白さが倍増する。そこで裏技や裏設定といった、ゲームの情報そのものを消費する楽しさが生まれたんです。ゲーム攻略本が生み出され、そしてゲーム情報誌が誕生していきました。たぶん『ゼビウス』の隠れキャラがなかったら、『ファミコン通信』などのゲーム情報誌の分野はなかったでしょうね。

田中:多根さんはゲームの進化をリアルタイムで実感し、そしてライターとしてゲーム評論のトップランナーとして活躍されています。多根さんがこの業界に入ったきっかけはなんでしょうか?

多根『超クソゲー2』(太田出版)のときに、ライターをだれか追加するかといことで、たまたま夏のコミケで上京していた僕に、阿部広樹君から電話がありました。実はライターになる前にはIT関係の会社で働いてましたが、そのときにゲーム語りをするWeb日記をしていたら、『ピュアガール』という18禁ゲーム雑誌を立ち上げた加野瀬未友君に声をかけられてライターの兼業を始めたのが、今の仕事のきっかけです。ネットがないといまの僕はないでしょうね。それ以来、ゲームが好きだからずっとやっている。ゲームとは目新しさなんです。現実とはちがうんだぞというのを出発点にしている。異世界を追求するというんでしょうか、わからなくていい、わからないことが快楽なんです。昔の愛着あるゲームも好きなんですが、「わかったもの」ばかりやるのは、ゲームの本質からズレてる気がする。

田中:多根さんのお仕事は、冒頭でも紹介しましたが、大きくガンダムのようなアニメ関係と、ゲームのお仕事の二系統があるように思えますが。

多根:どちらも想像力の観点から切り離せないものでしょうね。日本固有の想像力に興味があるのかもしれません。浮世絵などの先駆けがあったマンガ以上に、ゲームは日本の伝統から切り離されている。何もないところから出発しているんです。マリオやパックマンも、先行するものがほとんどない。例えば、平安時代の人が初めて紙を手にしたときに、どうそれを使うのか。まさに日本に根ざした素の想像力がでてくるわけです。それと同じで、ゲームも先に存在するものがなかったので、日本人の想像力の方向が出やすい。

田中:ゲームの歴史はたかだか30年くらいですから、文化としてはいわば幼年期ですよね。

多根:幼年期だからこそ日本人の根っこがみやすい。

田中:タイラー・コーエンという経済学者が、『創造的破壊』(作品社)の中で、グローバル化には二重の動きがあるといってます。異なる社会の同一化の動きと、社会の中の多様化の動き。ただ旧来の文化には、グローバル化というのはやはり同一化という「脅威」があると思いますが、多根さんはゲームにおける日本的な想像力とグローバル化はどう考えてますか。

多根:日本の家電業界はご存じのようにグローバル化によってダメになったと思います。その危機感がもっともあらわれているのが、進化のスピードが速いゲームです。特に日本のゲームの想像力は、一面ごとに違うシステムが採用されたりして、あれもこれもとアイディアを詰め込んで画一性を嫌う。いわば、一つの皿にちがうものをたくさん入れ込む文化なんです。これは生産性が結果的に非常に悪い。これは日本の製品が多機能になりすぎて使いにくくなり、単機能に絞った韓国製品の方にシェアを奪われつつあるのとパラレルなんでしょうね。

田中:田舎の温泉旅館にいくとどこも同じで海の幸や山の幸がてんこもりででてくるのと同じですね。消費者の嗜好にこたえようとするあまり、かえって総花的になりムダが発生してしまう。何から食べていいか結局わからなくなり、消費者には魅力ないものに映る。

多根:アメリカのゲームだったら効率性を重視するわけです。ひたすら戦場だけがひろがる世界をつくるとか。そのほうがゲームを作る方もステージ数を増やしやすいし、ユーザーも新たな操作を覚えなくて済むから入りやすい。日本だといろんなシステムを盛りこんでしまうので、人によってゲームに合う合わないの相性が発生しやすい。

田中:日本的な想像力の排他性でしょうか? ガラパゴス化の負の側面みたいな。これからの日本のゲームはどうなりますか?

多根:当面は、効率性重視の方向にいくと思います。コアゲーマーから嫌われているモバゲーみたいな方向ですね。モバゲーはパチンコみたいで、ずっと打ち台をみるのが快感のようなゲームですね。さきほどのアメリカのゲームがひたすら戦場だけが続いているようなものと同じです。ずっと同じ動作をくりかえし、タイムスケジュールを操作することで、ゲームをしている人の心理に影響を与える。イベントが起こるのを待つ楽しみや、それを課金アイテムでスキップできる優越感をビジネスにしている。

田中:時間をコントロールされる、する、みたいな快感に酔うゲームのタイプですね。時間の流れに没入して、同じ作業を延々続けることが快楽になるようにゲームが構築されていくと。

多根:そうです。時間を操作して、その時間の波に酔っているのがモバゲーでしょう。実は『どうぶつの森』もそれに近いと思っています。

田中:時間の操作の進化と同時に、やはり3Dとか空間の操作もこれからのゲームの進化の方向ですが、よりリアルなものが追求されるのでしょうか。

多根:そうは思わないです。現実に近くなると「不気味の壁」がでてくる。現実と同じものがあるとかえって気持ち悪くなる。海外の恋愛ゲームはそこがわかってない(笑)

田中:なるほど。多根さんたちの『超エロゲー』(太田出版)でも、現実と同じだとキモチ悪いし、そういうゲームをつくるのはわかってない人たちである、と評価されてましたね。僕もそう思う。

多根:3Dやって、現実にただいたずらに近づけてもダメでしょうね。人間が2次元で「可愛さ」を追求してきた蓄積や匠の技をなめてはいけない、ということですね。萌え絵や少女絵のエロゲーの方がよりリアルに感じる。リアルというのは現実と同じものではない。「ゲームのリアル」というのは人の感覚に受け入れやすいよう加工されたものです。

田中:いま最先端のゲームで注目しているものはなんでしょうか。

多根:最近の潮流は、昔の想像力の反復みたいなゲームが顕著ですね。『アンチャーテッド』も「映画みたいなゲーム」というFF的なものの延長ですし、ある意味で忠実な再現です。いまだと、最先端のゲームだとやはり『ラブプラス』になってしまう。

田中:僕はまだやってないです(笑)。

多根:堀井雄二さんはやっているらしいです(笑)。好奇心と研究心が旺盛なんでしょう。やっぱり、クリエイターであり続ける人は新しいものが好きですね。例えば手塚さんが今生きてたら、『魔法少女まどか☆マギカ』に嫉妬したでしょう(笑)。「新しいもの」の楽しさを追求する姿勢がなによりもゲームの世界では重要じゃないでしょうか。くだらないとかくだらなくないというのは、基準ができたあとにわかるだけです。基準をあてはめてゲームを判断していくんじゃなくて、新しい世界を知ろう、異世界を体験しよう、そういう方向こそが大切だと思っています。

2011年11月上旬、新宿プリンスホテルラウンジにて

多根清史著『教養としてのゲーム史』(ちくま新書)

多根清史・阿部広樹・箭本進一著『超クソゲー3』