連続対談「ミュルダールを超えて」は様々な価値観や考えをもっている方々と、僕=田中秀臣が1時間ほどの対談を通してそのお考えにふれ、その思想の深さを知ろうという企画です。そして対談の通題にした、ミュルダールとは、ノーベル経済学賞を受賞した北欧の経済学者グンナー・ミュルダールからとったものです。で、今回はその対談企画のタイトル由来になっているミュルダールその人の思想の深さを知るために、『ミュルダールの経済学』(NTT出版)の著者であり、またバーバーの『グンナー・ミュルダール』(勁草書房)の訳者でもある藤田菜々子さん(名古屋市立大学准教授)と対談することになりました。福祉国家を超える福祉世界というミュルダールの思想の核心をめぐる対談になりました。

田中:ついにこの間の多根清史さんとの対談では、うっかりミュルダールについていうのを忘れてしまいましたw ということで今回はそれを補うべく急きょ、ミュルダール研究の日本の代表者のひとりである藤田菜々子さん(とお話しをしようということで、ここ名古屋まで飛んでまいりました(笑)

?藤田:いいんじゃないですか、ミュルダールださなくても。初回から無理が(笑)

?田中:「大人の事情」です(笑)。

?藤田:バーバーの『グンナー・ミュルダール』の次はどの本がでるのでしょうか?

?田中:フレッチャーという人の『デニス・ロバートソン』を予定しています。ロバートソンはいままで日本では本格的な研究書が出たことはないです。しかもロバートソンはミュルダールとともに現代の経済学に大きな影響を与えた点でも重要な人ですね。来年の前半には刊行したいですね。

?藤田:あのシリーズを出していくのは大変ですね。なかなか赤字を出さないでいくのは。

?田中:専門書を着実に売り上げていくというのは大変ですよね。ネットなんかの売り上げをみても、だいたい1000円以下の本しか動かなくなってしまっている。そうなると新書しか売れないし、あと図書館の利用もあまりしないようなので、事実上1000円以下の本しか読まない人がすごく増えてる印象があります。印象だけだといいんですけどね。藤田さんの『ミュルダールの経済学』はどうでした?

?藤田:私の本はおかげさまで「黒字」だということでした。補助金などもいただいてなかったので大丈夫かな、と思いましたが、いい結果で安堵してます。

?田中:それはよかったです。あとの同種の企画が続くことができますからね。評判のよかった原因としては、藤田さんの『ミュルダールの経済学』は文章がわかりやすいことにもあると思う。文体の透明度がいい。

?藤田:ありがとうございます。それは指導教官だった山田鋭夫先生のおかげだと思います。山田先生はわかる文章を書かないといけないと何度もおっしゃっていました。山田先生は二年からのゼミの先生です。

?田中:山田先生のところではどんなことを学ばれてたんですか?

?藤田:レギュラシオン理論ですね。その理論的なところを勉強したり、ほかには開発経済学についても勉強しました。

?田中:『経済セミナー』(2011年6月&7月号)での藤田さんへのインタビュー記事によると学部生のときに実証研究をやられたとか?

?藤田:実証ではなくて、地元の駅前商店街がさびれていくのはなぜか、あるいは当時の大規模店舗法の改正の問題、それに郊外のショッピングモールについて、経済地理的な関心で勉強したんです。

?田中:本格的な研究のスタートは最初からミュルダール?

?藤田:そうです。とくに大学院の後期からですね。でも、ミュルダールなんて誰も関心がないかもと思ってました(笑)。最初に研究したのは、『ミュルダールの経済学』の第二部になっている方法論的なところでした。

?田中:僕はこの部分については経済理論史研究会で論評しましたが、こういう価値前提の明示にかかわる話は以前から興味を持っていました。福田徳三という20世紀の最初の方で活躍した経済学者がいるんですが、その弟子に山田雄三という学者がいます。この山田雄三が晩年にまとめた『価値多元時代と経済学』(岩波書店)という本の中にはミュルダールの価値前提についての論評があります。

?藤田:その本はミュルダールの経済学方法論を扱ったものの中でも重要です。私の『ミュルダールの経済学』ですが、田中先生にコメントいただいた第二部では、ウェーバーとミュルダールとの対比を扱っているのがポイントだと思っています。その研究会のときに論点になったと思うのですが、ミュルダールの議論では、一方で価値多元的な話があり、また他方で福祉世界という単一の理念をもとめる姿勢があって、これはどう関係するのか、という問題提起が田中先生からありましたね。

?田中:福祉世界の方は「平等」という理念を求める枠組みですよね。「平等」というのも価値評価だから、さまざまな価値の中のひとつにしかすぎない。ミュルダールが福祉国家の先にみたのが、福祉世界で、それはさまざまな諸価値の中で「平等」を最も重視する枠組みである。その福祉世界の「平等」という価値とほかの諸価値との関係はどうなっているのか、と思いました。例えば「効率性」という価値は、福祉世界が平等を追求すれば満たされる、と藤田さんは考えているように思えました。おそらくミュルダールの脳裏には、当時のスウェーデンの成功事例があったのではないか、と思います。スウェーデンは平等も追求するが、同時に効率性も重んじている。このスウェーデンの成功事例を国を超えて、福祉世界という理念に反映しているんじゃないか、とミュルダールの考えを僕はとらえてます。

?藤田:そうですね。福祉世界は、スウェーデン的な経済社会システムの拡張版と言ってもよいかと思います。手厚い保障だけではなく、自由競争的な側面もあるという、いわゆるスウェーデン・モデルの成功が背景にあるでしょうね。しかし、なぜスウェーデンがそうした成功をなしとげたのか。私は、1930年代の改革がやはり歴史的な転換点であって、そこにミュルダールの貢献があったと考えています。そのスタート時点での大衆への説得なり、財政金融政策の成功なりが、いまでも遺産として続いている。拙著の第三部を1930年代の話から始めたのはそうした考えに基づいています。

?田中:1930年代のスウェーデンというと、人口政策についても、いまの日本と違って、人口減少に取り組んでかなり思い切ったことをしている。金融政策でもインフレターゲットを先駆的に採用している。また規制緩和でも積極的で、雇用の流動化についてもかなり促進されている。例えば、これは戦後ですが、1950年代に経済学者の小宮隆太郎氏が当時のスウェーデンにいって、福祉と自由競争の二面が徹底されているとルポしています。

?藤田:そうですね。ミュルダールが福祉世界論を展開している『福祉国家を超えて』を書いたのは1960年ですから、そうした50年代ごろのスウェーデンの成功体験がベースにありますね。

?田中:このスウェーデンの福祉国家の形成と前後して、多くの国が福祉国家路線を採用するわけですが、例えば藤田さんは日本は福祉国家だと思いますか?

?藤田:福祉国家とはいえるけれども、その程度は低いでしょう。とくに日本は女性や子どもを社会のメンバーとして守ろうという姿勢が、北欧などに比べるとかなり低いと思います。

?田中:フランスでは人口減少対策とか、家族対策を積極的にしてますよね。日本でも同様の政策をとるべきかな、と思いますが、日本の経済学者の多くは財政的負担が多くてそれに否定的です。僕は人口減少がいろんな構造問題の根源にあるとするならば、40,50兆円ぐらいの資金投入は子育て支援に使ってもいいんじゃないか、と思うんですけどね(笑)。

?藤田:子ども手当ではもめましたね。

?田中:そうだよね、僕はあれはオッケイだと思うけど、藤田さんはどう思いますか。

?藤田:私もオッケイ(笑)ですよ。

?田中:ミュルダールはただし現金支給には否定的でしたよね。ミルトン・フリードマンなどは現金支給の方がもらった側が自由に選択する余地があるので望ましいという主張でしたが。

?藤田:スウェーデンは現物支給の割合の大きい国ですね。近年、地方分権に現物支給の権限が委譲されていて、その分、かなり柔軟な制度運営にはなってきていますけれども。ミュルダールの場合、現金だとそれがどのように使われるかわからないというのが現金支給への批判の視座のひとつでした。それはミュルダールの「上から目線」的な姿勢なのかもしれません。子どもの育て方や教育の仕方などは大衆にはよくわからない、という考えが確かに含まれていました。

?田中:ミュルダールの「上から目線」的な姿勢ですが、彼はご存じのように低開発国論の中で従来のイギリスの古典派経済学者を批判している。ジェームズ・ミルという、古典派経済学者のひとりで、『英領インド史』というインド領統治についての一種のマニュアルを書いたひとも批判しています。ところで、ミルは『英領インド史』の中でどんなことを書いたかというと、簡単にいうと、いまのインドの人たちでは自ら経済発展を主導することはできないと。だからイギリスの啓蒙的な指導がいるんだ、とミルは植民地経営に強い支持を与えます。このようなミルのエリート的意識とミュルダールの「上から目線」はきわめて似てますね。

?藤田:確かにそういう側面をミュルダールはもっていますね。でも経済学者は多かれ少なかれそういう側面があるんじゃないでしょうか。

?田中:それはいいところついてるね(笑)。ただ頭のいい人の暴走をとめる仕組みも最近では発展してきてると思います。そのスウェーデンで行われたインフレターゲット政策はその典型で、頭のいい人たちが自由勝手に政策を行うのを防ぐために、一定の目標を定めるルールだというわけです。例えば、いまの日本銀行総裁は「物価安定」といってもその肝心の「物価安定」の中身を勝手に決めてやってますが、それもインフレ目標で制限することができますね。

?藤田:ミュルダールに話を戻しますと、彼は初期はエリート的な社会工学的なところがあったんですが、後期になるにしたがって、民主的というか「下からの」変革も重視していきます。両面を見るようになっていくわけです。

?田中:なるほど。

?藤田:福祉世界論でいえば、ミュルダールの娘にシセラ・ボクという倫理学者がいますけれど、彼女の最近翻訳された『共通価値』(法政大学出版局)は、ミュルダール的な福祉世界論に類似しているようです。コスモポリタン的な価値観、例えば人命の尊重などがあって、そのほかに多様な価値を認める、という二階建てになっている。

?田中:なるほど。その二階建てで思い出しましたが、タイラー・コーエンの『創造的破壊』という本を監訳しましたが、そこではグローバリズムは文化の二重運動をひきおこすとあります。一面では異なる社会の同一化がすすむ、もう一面では社会の内部の多様化もすすむ。そのシセラの考えでいうと前者は二階建ての上の共通価値の部分で、後者は二階建ての下の多様な価値観でしょうね。これは卑近な例だけど、世界中にいま目の前にあるんだけど(笑)アイスコーヒーは普及している。これは共通のもの。でも日本のアイスコーヒーとオーストラリアのアイスコーヒーってまったく違う。

?藤田:そういう「緩い」感じでいいんじゃないでしょうか。あんまり厳しく固定化して考えるとおかしくなっちゃう。ミュルダールの福祉世界も実は単一の内容をもつというような理念ではないと思いますね。多様性や変化を含みうるのではないでしょうか。

?田中:確かに。例えばさっき名前をあげた山田雄三も「福祉」というのは中身を具体的に厳密に決めなくていい、だいたいみんなで平等になるように追求していきましょうよ、という感じでいいんだ、という発言を繰り返したけど、そういう姿勢に近いですね。あとは諸価値の対立がおきても個々具体的にその調整をしていこうと。二階建ての上層では緩やかな目的をたて、下層では具体的な調整をはかる、という戦略ですね。

?藤田:現在はグローバル化がすすんで、ほかの国のことに無関心ではいられなくなりました。自分の国は豊かでも、ほかの国や地域ではひどい飢餓や紛争で苦しんでいる人たちがいる。それが情報として伝わってくるのでそれに無関心ではいられない。そのときに多くの人たちがもつ理想が力を得て、福祉世界は機能するように思います。

?田中:ちょっとジャンプする議論かもしれないけれども、なんで僕たちは「理想」を必要とするかというと、いまおっしゃったように世界のいろんなところで誰かが悲惨な目にあっている。ところが実際にはそのすべての悲惨を救済することは事実上無理ですよね。そういうトラウマを解消するために「理想」が機能することもある。これは「理想」の自己欺瞞的な側面かもしれない。平等を追求するといっても、絶対に救えない人たちがいることを知っているから。つい最近、坂上秋成さんという若手のすぐれた文芸批評家と対談する機会があったんですが、その中でビジュアルノベルの世界の話がでてきて、特に多くのビジュアルノベルがマルチエンディングであり、いくつかのエンディングでは悲惨な状況を救えるんだけど、別なエンドを迎えるパート(ルート)では、根源的に誰かを救えてない状況が発生してて、それがゲームをやる側のトラウマになっているという話を聞きました。そういう救済されないトラウマをゲームをする若い人たちが感性レベルで体験している。このトラウマを解消するには、何かシステムの改変がなければいけないけどそれはいまだ完全には到達されない。そんな状況に、ビジュアル・ゲームだけでなく、もちろん現実もいえるわけですよね。ただしその救えない人がいることを認知してても、とりあえず平等という「理想」を追っていれば、「理想」をいっている本人のこころの均衡は保たれるかもしれない。そんなように、多くの人が、実は現実の救済不可能性を、「理想」のもつ自己欺瞞的な側面によって癒しているんじゃないかと思ってます。救えない部分をずっとみているとそこにひきずられて先にも進めない。進むためにもそんな「理想」の自己欺瞞が必要になってくるのかもしれない。

?藤田:私は、ケインズではないですが、将来についての考えが現実を決めるという側面があると思うんですよ。過去の積み重ねが現在を決めるという考えもありますが、将来をどうみているか、目的地をどう設定するかでいまが変わるというのもあるでしょう。ミュルダールもそういう考えをもっていたと思います。予想が現在を決定していくというのは彼の価格の決定理論の中心でした。そうした予想を「理想」へと広げ、価格だけでなく、社会を決めていくと考えたのが、後期ミュルダールの立場ですね。私は、ミュルダールは福祉世界論でそうした「理想」の扱いをはっきり示したと理解していますが、最近例えば日本の高田保馬もミュルダールより早く世界社会論という概念を提示していたのを興味深く思っているところです。ミュルダールも高田もある意味楽観的でした。ミュルダールの福祉世界論の根底には、将来への希望があるといえるでしょうね。

?田中:僕のさっきの「理想」の自己欺瞞論に即していえば、いまは救済ができないものでも、将来は救済できるかもしれない。そうなれば「理想」の自己欺瞞のレベルも低くなる。そういう将来への希望を核心にしているのが、ミュルダールの福祉世界論なのかもしれませんね。

?2011年11月下旬 名古屋駅ビルのレストランにて

?藤田菜々子著『ミュルダールの経済学』

藤田菜々子訳(若田部昌澄・田中秀臣監修)ウィリアム・バーバー『グンナー・ミュルダール』(勁草書房)