「ミュルダールを超えて」は自分と異なる価値観や意見を持つ人との対話を試みる企画ですが、今回はその本領発揮の対談になりました。世代も関心も大きく異なるこの組み合わせは、僕にとっても例をみないほど有益な対話になりました。準備のためにこれほど時間を割いたのも久しぶりです。坂上秋成さんは。1984年生まれの27歳。まさに新進気鋭の文芸批評家で、新世代の論客として有名です。その守備範囲は、純文学、ライトノベル、ビジュアルノベルなどで、従来の「文学」のイメージを大きく逸脱した領域で発言を続ける人です。『ユリイカ』『早稲田文学』『週刊読書人』などに寄稿し、また『BLACKPAST』の責任編集をつとめ、近刊予定の『ビジュアルノベルの星層圏』の編集もされています。今回の対談では、特に田中ロミオのライトノベルを中心に話をする予定でしたが、それだけにとどまらない広範囲な話題を語り合いました。
田中:小松左京が死んで、僕も彼の遺稿が収録されている論文集に寄稿しました。最近は店頭でも小松の業績を再評価したりするムックや、また彼の小説や論文の再編集した書籍も出版されてます。その中に東浩紀氏の編集したものがあるのですが、やはりいま日本のSFぽい著作の中では彼の作品が目立っていると思います。特に彼の『クォンタム・ファミリーズ』は面白い作品でした。ただその面白さと同時に、何か「不気味なもの」を感じたのも事実です。作品の修辞レベルではないものですが。それはこの架空の物語に、なんだか作者が抱く、現実の家族に対する愛が歪んだ形で反映しているような、そんな気持ち悪さです。ちなみにこれは非難しているのではなく、この「不気味なもの」を表現することこそ、彼の創作の狙いのひとつではないか、という気がします。

坂上:三島由紀夫賞受賞後の「現実はなぜひとつなのだろう」というエッセイで、東さんがこの作品の狙いについて語っているんですが、なんで現実はひとつしかないんだろうか、いまの自分とそうじゃない自分がいるんじゃないかという問題提起をしています。幸福じゃない自分、幸福だった自分、いくつものルートがあって、つねに不幸じゃない自分を救ってあげたい気持ちがあるといってます。『クォンタム・ファミリーズ』というのは東さんの現実の奥さんやお子さんの別様の在り方を想像しているものじゃないでしょうか。

田中:多元世界的な私小説になっている。

坂上:いくつもの世界が存在する時に、どれもが「本当はあったかもしれない世界」として描かれている点が面白いところですよね。

田中:僕もそれ同感です。作中で女の子が言う「大丈夫、大丈夫」というセリフが、現実とほかの世界を結ぶ、一種の呪文になっているんですが、この言葉が逆に多元世界のもつ気持ち悪さを表現してもいるように思えます。非常に特殊な私小説を読んだという感想でした。

坂上:そういった「気持ちわるさ」というのはあって、今日の話題であるビジュアルノベルが本質的にもっている気持ち悪さにつながるものだと思います。

田中:僕はビジュアルノベルについては、今回の対談の準備のために田中ロミオがシナリオを担当している『ユメミルクスリ』をまずやってみました。ただこれはかなり淡白なゲームに思えました。

坂上:淡白ですね。ビジュアルノベルにおける「気持ち悪さ」はマルチエンディングという形式に拠っているところが大きいんです。だいたい女の子とのエンドを目指すんですが、ヒロインが五人いたら五人分の攻略ルートがある。例えば、ABCDEのルートがあって、Aというルートをクリアし、Bというルートをクリアする。順番に攻略していく。だいたいヒロインはトラウマを抱えています。Aというルートにいくと、Bというルートのヒロインのトラウマは解消されずに終わるわけです。どのルートを選んでも残りの4つのルートのヒロインはなにかしら不幸な状態に陥っている可能性があると、そういった想像をユーザー側が抱きやすい。基本的にポリガミー(一夫多妻制)なシステムが前提になっていて、複数の女性に対する欲望を肯定するものとしてマルチエンディングがあるんだけれども、5人同時に救済することができないという点が、たぶん「気持ち悪さ」ということにつながっている。『ユメミルクスリ』に白木あえかっているじゃないですか。あえかのルートにいけば彼女は助かりますが、ほかの二人の女の子のルートにいくと彼女は自殺未遂をして重体になってしまう。その気持ち悪さはどうしても解消できないんですね。

田中:そうか。自分があるルートを選択したことで、救える現実と、その一方では解消されないトラウマが絶対存在してしまうことになる。そういう後味の悪さをフォローできる感性は非常に繊細というかナイーブだよね。僕なんかは古い感性だから、そこまで深くビジュアルノベルの気持ち悪さをわかることはできないかもしれない。

坂上:ビジュアルノベルが出てきたのは97年の『To Heart』というパソコンゲームからです。『弟切草』ってご存知ですか?

田中:ええ。

坂上:『弟切草』はサウンドノベルですが、それに『ときめきメモリアル』的な恋愛シュミレーションをあわせた型として『To Heart』が出てきた。人気が出た理由は、ノベルゲーム形式で女の子を攻略し、日常におけるコミュニケーションを重視したからですね。ところが『Kanon』というゲームがあって、月宮あゆというメインヒロインがいて、その子以外のルートにいくと人の命を救うような奇跡が起きるんですが、その奇跡はあゆの死を代償にして成立しているんです。。そこに対する罪悪感がユーザーに共有されてきたのが、発売されてから2,3年経ってからで、「Kanon問題」と呼ばれるくらい有名な話です。ビジュアルノベルが面白いのはそこなんですよね。システムの問題としてマルチエンディングというフォーマットがあって、実際に僕たちが生きていている現実ってひとつのルートしか選べないじゃないですか。たとえば五人のヒロイン全員を救えるようなシステムをつくらなければいけないということになったときにループゲームという構造がでてきた。小説の場合はループさせるのはかなり難しい。物語内でループさせて時間が戻ったよ、というのは簡単だけど、実際にプレイヤー側にループしている感覚を体験させることは容易ではない。全く同じ文章を何回も書くわけにはいかないですからね。ただ、ゲームというフォーマットだと、それこそスキップしたり、選択肢を飛ばすことができるので何回もやることができる。ループを描くためのシステムが初めから用意されているメディアなんです。
田中:多根清史さんとの対談で、モバゲーの話題がでてきて、そこでの時間のコントロールという視点がでてきました。それはパチンコに似ていて反復繰り返しを快楽として享受している。ループゲームも同じでしょうか? ループの中に快楽を見出すのでしょうか?

坂上:うーん。反復とループというのはちょっと違います。マリオでクリボーを何回も踏みつけてその行為を楽しむのが、反復行為の快楽ですね。ただノベルゲームの場合のループは、ヒロインAを救ったあとにBを救い、Cを救う……という構造をつかい、全員が救済されるというものです。このループ構造はここ15年でヴァージョンアップされています。

田中:そういうループ構造を使う物語は、昔からあってすぐに思いつくのは『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』。

坂上:そうですね。SFでいえば『リプレイ』とか。

田中:タイムトラベルものは基本的にそういうループ構造を内包してますね。

坂上:昔のだと『時をかける少女』もそうですね。

田中:あれは物語だけでなく、現実世界でも何度も映画化されるなどループしてますよね(笑)。

坂上:ループゲームでいえば、田中ロミオの作品だと典型的には『CROSS†CHANNEL』になります。

田中:『CROSS†CHANNEL』はインストールに失敗してまだやってません。すまぬw。ただ田中ロミオのライトノベルはとても面白かった。

坂上:『AURA?魔竜院光牙最後の闘い?』は面白いですよね。

田中:木地雅英子さんの作品、例えば『悦楽の園』に通じるものがありますね。

坂上:あ、その作品は初耳ですね。

田中:宇野常寛さんが解説を書いてます。
田中:木地さんの作品は特に田中ロミオの作品だと『灼熱の小早川さん』に似ています。教室で「ふつう」ってなんだろうと考えたり、戦略的に生きている少女が主人公。田中ロミオだと少年ですが。木地さんの『悦楽の園』では、この少女や少年たちの戦略が徐々に破たんしていく。そのときの救済はどこにあるのか。救済の道はふたつあって、ひとつは外部にあるコミュニティに逃げちゃう。もうひとつは教室の中でもう一回戦略を立て直してコミュニケーションをとっていく。これを同時並行にやっていく。田中ロミオのライトノベルは木地さんの作品と似ているけれども、外部のコミュニティでの救済は欠落している。教室の中だけで生きていくという色彩が、田中ロミオのライトノベルでは濃厚ですね。

坂上:ただビジュアルノベルだと少し違います。田中ロミオは、山田一と同じ人なんですが、そちらの名義での有名な作品に『家族計画』というのがある。ほかに田中ロミオのビジュアルノベルではさきほどの『CROSS†CHANNEL』と『最果てのイマ』が代表作といいでしょうけど、どれもコミュニケーションが主題です。その主題を徹底的につきつめている。『家族計画』は2001年の作品ですが、これは家を失った人間が六人ぐらい集まって疑似家族を作って暮らすという内容です。。全員社会不適合者というかぶっこわれているところがある。そういう連中が集まってなんとか家族をつくれないかという話です。それに近いモチーフとして『CROSS†CHANNEL』があって、これには群青学園という場所が登場します。。そこも社会不適応者だけが集められている学園なんです。人間がみんな適応係数という概念で表現されている。

田中:数値化されてるんだ(笑)。

坂上:そうなんですよ。高いほどヤバい。30超えると普通の学校ではなく、その学園に入らなくてはいけない。主人公の黒須太一は80超えのバケモノなんですよ。完全な異常者です。それで黒須太一は常に普通になりたいけれどもなれないというすごい葛藤を抱えている。そんな中、太一を含む8人の仲間たちは他に誰も存在しない並行世界に飛ばされてしまうんです。さらにその世界は、一週間経つと世界が再構成されるという仕組みになっているため、仲間たちと絆を結ぶような時間もないんです。そこで太一は、全員と同時にコミュニケーションすることを諦め、ひとりひとりと絆を結ぶことを重視しながら、みんなを順番に元の世界へ送り返していく。しかし、自分だけは帰還することができないんですね。太一は孤独な世界に取り残されることになってしまう。

田中:それは『指輪物語』に似ている。『指輪物語』も歴史的な意味でのループの繰り返し。主要メンバーを歴史のループをなぞるようにして救済していく。でも結局は主人公のホビットは異世界に去ってしまう。木地さんの作品も社会的不適合者の学園みたいなのが、社会の外部にある。教室の中での不適合度が高まるとそこに行く。そこで再生して教室の中に戻っていく。そういえばこういう物語の構造を宇野常寛さんは好きですよね。

坂上:そうですね。宇野さんは大学や高校の仕組みについて言及することも多いですね。

田中:なるほど。ところで坂上さんは『灼熱の小早川さん』をあまり評価してないと僕とのメールのやりとりで書いてましたがなんででしょうか?

坂上:抽象的な話から入りますと、さっきコミュニケーションが田中ロミオの主題だといいましたが、もうひとつ田中ロミオは「普通」とか「異常」というものにすごくこだわりをみせているんです。ビジュアルノベルの方で田中さんが書いているのは、異常者が集まってどうにか普通になろうとする物語です。ところがライトノベルの方――あとビジュアルノベルでは『ユメミルクスリ』もそうですが――は、学園をベースにして、普通の人間の中におかしい自分が投げ込まれた時にどうするのかというモードで書かれています。田中ロミオは異常者がいっぱいでてくる作品に関しては天才としか言えないほどに上手いんですが、学園における教室の空気を書くことにはあまり長けていないというのが僕の考えです。それが一番悪くでてるのが『灼熱の小早川さん』と、シナリオそのものにどこまで関与しているかわからないですが企画を担当した『ユメミルクスリ』だと思っています。

田中:たしかに『ユメミルクスリ』は苦しい。

坂上:『ユメミルクスリ』では、あえかルートというのがメインルートですよね。基本的にいじめられている子を主人公が助けて、それで主人公もクラスでハブられる。最終的には、二人でいじめの主犯格の弱みをにぎった後、こんな学校にいても意味ないよ、とやめていく。しかし、そこで描かれているいじめというのは、もはや明確に犯罪として扱えるレベルのものなんですね。例えばあえかが教室でスタンガンを突きつけられてその衝撃で倒れてしまうシーンがあるんですが、教師は普通に授業を進めるんです。他にも強姦まがいの行為をされたりと、明らかにいじめの度を超えている。そのとき怖いと思ったのが大人が出てこないという点なんです。常に生徒たちしか出てこない。どう空気を読んでいじめられないようにするかだけをみんなが考えているんです。でもそれは根本的に間違っていて、空気を読むよりもスタンガンで攻撃してくる奴がいるならまず警察呼べよという話じゃないですか(笑)。これはもうただ単に刑事事件の問題ですよ。それなのに教師や警察に相談するという発想は全く出てこない。それは田中ロミオがいかに社会や大人といったものを信用していないかってことなんですよね。

田中:同質的な教室世界の中でのコミュニケーションを追求していったらその極北では、異質なものとして関与してくる「社会」や異人としての「大人」が排除されたんでしょうね。

坂上:『家族計画』も『CROSS†CHANNEL』も同じで、社会に信頼をおいてないですね。

田中:確かに『灼熱の小早川さん』は外部としての社会に行く逃げ道はないですね。

坂上:なんで僕は『AURA』は評価する一方で、『灼熱の小早川さん』が嫌なのか。それは『AURA』がズルいことをやってないからなんですよ。ヒロインの佐藤良子は世界の狭量さに耐えられなくなって魔法少女としてふるまう。そういうフェイズを脱している佐藤一郎という主人公がその少女を自殺から助けるシーンが物語のクライマックスになっています。面白いのは、そのときに一郎は説教するんじゃなくて、「オレにもそんな時期があった」と昔使っていたコスプレ衣装を着こんでその子と対話しようとするんです。自殺をくいとめて、一郎の部屋でふたりでライトノベルを読んで、「いまはクラスの連中に言えないけど、10年後は笑いとばせるよね」というラスト。でも『灼熱の小早川さん』はズルい感じ。クラスの女番長を悪人にしてしまって物語を構築している。
田中:ところで、いつからビジュアルノベルに魅かれたんでしょうか?

坂上:19歳の時に友人から『君が望む永遠』というゲームを借りたのが最初の体験ですね。当時僕は美少女ゲームというジャンルにかなり偏見を持っていたんですが、友人に「頼むからこれをやってみてくれ、つまらなかったら土下座でも何でもするから」と言われまして(笑)。 それで実際にプレイしてみたらマウスをクリックする手が止まらず、48時間連続でPC画面に貼りつくことになりました。『君が望む永遠』はそれこそドラマ化されてもおかしくないような、リアリスティックな恋愛を描いた作品なんですね。それで、ゲームというジャンルでこういうことをやっていいんだと、ある種の感動を覚えた。その頃はまさか批評の仕事にも繋がるとは全く思ってなかったですけど(笑)
田中:ほかに小説とかは何か読んでました?

坂上:割と乱読でしたけど、中学の頃には村上春樹やカフカ、カミュといったメジャーどころの作品に影響を受けてましたね。大学入ってからはイタロ・カルヴィーノやヴィクトル・ペレーヴィンといったいわゆるポストモダン文学の作家に惹かれていきました。

田中:僕は村上春樹の作品は彼のデビュー作を掲載誌で読んでました。当時高校生でしたが、いままで読んでた作家―三田誠広、村上龍や中沢けいとかーとまったく文体が違う。海外の翻訳ものに近いんだけどそれともやはり違う、とても新しい感じの文章でとても興奮しました。まわりにその興奮をいったんだけど誰も理解者はいなかった。「村上春樹、誰?」とか「あんなマイナーな作家はすぐ消える」とかだいたいそんな反応でしたね。

坂上:一種の抒情性が文体にありますよね。そこに一種の自己陶酔を感じてしまう人には拒否反応も出てしまうのかなと思います。

田中:ところで村上春樹なんですが、坂上さんは『ユリイカ』(平成23年1月臨時増刊号)で、「「浄化の物語」を願いながら 三人称・コミットメント・反サプリメント」というすぐれた村上春樹論を寄稿されています。そこでも話題になっている村上作品の一人称と三人称の位置づけに僕も興味を持っています。たぶん村上が意識しているのは、ミハイル・バフチンのポリフォニーの概念だと思います。村上は『考える人』のロングインタビューの中で、ドストエフスキーら19世紀の作家たちの三人称的な作品世界観を継承しているといっています。バフチンがドストエフスキーの作品の特徴としているのは、ポリフォニー的な特徴でした。例えば、一人称の作品世界は、ある女の子がいて、その子を好きな男の子にとってみればその子は絶世の美女かもしれない。一人称の作品世界ではその女の子はずっと絶世の美女です。ところが三人称的な作品世界では、ある男の子が絶世の美女だと思っていても、ほかの登場人物たちからは「たいしたことはない」とか「そもそも人間じゃない(笑)」とかいうさまざまな「声」が同じような資格で描くことができる。これをまあ、単純化すればポリフォニーの説明といえなくもない。村上が意識的に三人称の作品を書くようになったのは、さまざまな「声」でより多様な価値観をフォローしようとしているせいでしょうね。

坂上:僕もバフチンからの影響は強く受けています。今でもロラン・バルトと並んで、自分の文芸批評のベースになっている人物です。
田中:こういうバフチン的世界観をようやく経済学も取り入れ始めてるんですよ。

坂上:その話は詳しく窺ってみたいですね。

田中:例えば、アマルティア・センの『アイデンティティと暴力』。アカロフたちの『アイデンティティ経済学』などがそういう業績ですね。さまざまな「声」を重視するという意味で、センはそれをアイデンティティの複数性といってます。従来の経済学は、人間のアイデンティティの複数性を無視してきました。複数性どころか、人間が「声」、つまりアイデンティティをもつこと自体否定してましたね。例えば、従来の経済学は財やサービスを消費して満足する、功利主義的な世界観が出発点になっていますその後、功利主義的な要素さえそぎ落とされていき、単なる選択理論に変化していきました。例えば、何冊かある小説から特定の小説をより優位に選ぶという行為自体には注目しても、「なぜその小説が選ばれたのか。それを選んだのは小説を読むこと自体が面白いからなのか否か」といった動機の側面はまったく無視されていきました。

坂上:それはマーケティングしないということに繋がるんでしょうか。なぜ快楽をおぼえるのか、どうして商品が売れるのか、というのはマーケティングの問題になると思うんですが。

田中:なるほど、そういえるかもしれません。そういうマーケティング的要素を経済学は全くカットしてくてますね。センやアカロフはそういった要素をいれて経済学を再構成しようとしている。つまりさっきの例だと、一人称的世界である「僕の彼女は絶世の美女」という「声」だけではなく、「ただの人」とか「そもそも人間じゃない」とかそういう多様な「声」も拾っていく。

坂上:素朴な疑問ですが、そうなると全員の「声」はすべて回収できないんじゃないでしょうか。莫大な人数がいるわけだから。

田中:多くの「声」は市場で回収できると経済学は考えるわけですね。

坂上:市場自体がひとつの「声」にもなると。
?
田中:そうですね。市場は大きなウェイトをもちます。もちろん市場だけじゃない。キャラがお互いに認識可能というか、お互いの嗜好をわかり合ってるもの同士は、コミケみたいなところで相対取引が可能なんですね。でも多くの取り引きは、匿名性をもっていて、特段、その人がどんなキャラであるのか不問でも市場というものを通じて取引が行える。ものすごく大人数の「声」が市場で情報集約が可能になっている。いままでの経済学はこの匿名性には抜群に強い市場中心の世界観をもってました。センはこの市場は膨大な「声」を拾うひとつのルートにしかすぎないといって、アイデンティティを重視する市場外の社会制度に注目しているわけです。僕は市場で拾える「声」はかなり大規模なものになっているんだと思ってます。もちろん他方で、センみたいなアイデンティティ重視の見解は支持してて、例えば『AKB48の経済学』ではそれを「物語消費」とか「こころの消費」としてとりあげてます。この観点も「声」の複数性というか、アイデンティティの複数性に配慮したものです。ひとそれぞれに「物語」という重みがあるという形で消費の形態が区分される。例えば従来の経済学は、いま目の前にアイスコーヒーと村上春樹の本があるとして、それがどのくらい好きなのか、という問いはしないんです。ただ単にアイスコーヒーは村上春樹よりも選ばれた、という形で、その人間の選択行動を合理的に再構成して考える。作品やコーヒーへの思い込みや、どちらがどのくらい好きかという程度の大きさも無視してきました。

坂上:『AKB48の経済学』では、その無視されてきたものをダイレクトにいれようと考えたわけですね。

田中:そうです。

坂上:市場性に関してですけど、僕は自分の守備範囲で、純文学、ライトノベル、ビジュアルノベルの評論をしていて、そこにたまにアニメ評論をしています。今純文学というのは市場で売れなくなっていて、書いている人たちの意識というのは、市場とは別なところでジャンルを正当化するロジックを展開してて、「文学の伝統を引き継ぐ」とか「この文学は凄い」といったように、だんだん伝統芸能みたいになりつつあるんですね。一方、市場性を加味した上でライトノベルが面白いのは、作品の内容とは別のところで、消費者の無意識を反映する形でコンテンツが作られているという点です。同じことがアニメにもいえます。たとえば「今こういう女の子がウケるだろう」というパターンが確立するとその変奏やコピーパターンで市場が回っていくんですよね。そうなるといま消費者がどんなことを考えているのか、どんなところに反応するのかが見えてくる。それに対して作り手も戦略を立てていくという相互関係が、分析の対象として面白いんですよね。市場の無意識をいかにクリエイター側が回収するかということで、会社などの利益に直結しているんだけど、おそらく市場の無意識自体は数値に表れない。それがさっきのアマルティア・センのアイデンティティの複数性につながるのかなと感じる部分があります。

田中:坂上さんたちが市場の無意識を拾うということを分析としてやっているということだけど、かなり昔に同じような戦略を採用していた経済学史研究者に内田義彦という人がいて、彼は「文学が経済学に先行する」というテーゼをもっていました。同時代の文学が、市場の無意識を先行的にとらえることができ、経済学はそれを参考にしなくてはいけないと。実際に彼の周りには著名な文学者、例えば木下順一という劇作家がいました。彼は『夕鶴』とか『オットーと呼ばれた日本人』などで有名です。またほかにも思想家で森有正らもいて知的サークルを形成してお互いに時代の無意識と格闘して、そこから市民社会の動きをつかもうとしていた。だけども彼らの死後、その伝統は経済思想史や経済学の流れの中で途絶してしまいました。まあ、手前味噌ですけど、市場の無意識を先行して集約していると坂上さんがおっしゃたライトノベルに関心をもった経済学者は僕がたぶん最初でしょう(笑)。

坂上:それは僕も驚きました(笑)。

田中:坂上さんの村上春樹論に戻ると、この論説のキー概念である「浄化」というのは小説空間内で発生している問題への根源的な解法、そして「サプリメント」というのは一時的な対処療法と言っていると思います。こういった小説の解読というのはとても社会科学的なアプローチだと思いました。

坂上:これを書いた時には、安易な癒しというものと「浄化」を分けたいという気持ちが強くありましたね。

田中:たぶんこの村上論の延長にもあるんだろうけど、『BLACKPAST』に掲載された「流体現実の時代―インターネット以降の世界認識について」、これも興味深かったです。

坂上:好意的に読んでくれる読者が大半でしたが、曲解して読んでくる人もいましたね。「金をかけずネットで祭りに参加してれば幸せ」という読解をされたことに割と驚きました。
田中:ぜんぜんそんな風には読めないよ(笑)。僕の読み方はまったく違いますね。Twitterとかブログなんかのブロック機能をうまく使って自分たちの都合いいものしかコミュニケーションをとろうとしないと。そういった現実がまずありますよと。その上でさまざまな問題圏を扱うというのがこの論説の趣旨では?

坂上:そう読んでいただけると本意です。

田中:そういうブロック機能がもたらすカスタマイズされた「排除」めいた状況があることに焦点が特にあてられてる。

坂上:そうですね。カスタマイズされた機能が拡張されているということが書きたかった。だからこそ論考内では「属地ベース」と「ネットベース」という概念を分けています。「属地ベース」というのはリアルなコミュニケーションのことですね。20世紀までは「属地ベース」しかなく、そこで自分の世界に対する関わり方をカスタマイズしていくしかなかった。だからこそスクールカースト問題もあったと思うんです。

田中:それを「ネットベース」がゼロ年代以降問題圏にでてきて、複数のベースの選択の問題がでてきたと。複数のアイデンティティがひとつの人格の中に統合されているという問題として読めます。いままでは「属地ベース」でしか生きられなかったのが、「ネットベース」でも生きていくことができるようになった。しかもカスタマイズされた機能が拡張している。その反映で、例えば、Twitterやブログやmixiなどそれぞれで接触する人たちが(一部は重なるものの)かなり変わってくる。

坂上:そうです。たとえば、ビジネスモードとSNSにおけるプライベートモードだったら、語尾や単語の選択も変わってくるでしょう。そういった人格の分裂を推し進める環境が作られているということをまずは意識しないといけない。ドゥルーズの受け売りのようになってしまいますが、そもそも僕は単一の主体というものを全く信じていないし、今はそれがネット上で可視化されている時代だと思うんです。

田中:僕も同意です。さきほどからのアイデンティティの複数性というのは、従来の経済学が採用している単一の主体への反論ですから。この論文「流体現実の時代」を読んでいて、社会の流動化が高まる、ベースの多様化とか、そういう流れは基本的に同意しますが、ただそういう社会の流れがデフレによって狂ってしまう側面もあると思ってます。例えば、派遣労働の人はデフレによる長期停滞のために、同じベースにとどまらざるをえなくなり、ベース間の選択が歪んだ形になってしまうかもしれない。

坂上:そうですね。属地ベースだけで考えていると、場所による制約を常に受けることになってしまうでしょう。物理的・空間的な制約が精神的にも窮屈なものとして認識されてしまう。そこにネットベースの発想を加えることで、自身が動ける領域を拡張できるという感覚を持つことが重要です。
田中:属地ベースでそこにとどまらざるを得ない状況の一方で、テクノロジーの進化で「ネットベース」が利用できるようになってきた。デフレの進行によって「属地ベース」の拘束性が強まるなかで、限界費用がほぼゼロですむような「ネットベース」の領域が拡張してきた。そこで人は「属地ベース」から「ネットベース」への選択肢を手に入れることができた。しかし「ネットベース」でも承認欲望という違った拘束性の問題がでてきた。例えば承認欲望の問題の典型例というのは、加藤智大のような人物。

坂上:リテラシーが高く、自分を制御することのできる人じゃないとネットを上手く活用するのは難しいという問題があります。今は誰でもネットに接続できる環境になっているけど、そこで如何に上手く振る舞うかという技法やマナーに関しては驚くほど感覚が共有されていない。。僕は『流体現実の時代』で承認欲求の話を持ち出していますが、ネットは匿名やハンドルネームですませられるから、その場合はダメージを受けにくい。批判されても、あまりに不愉快なら最終的にはアカウント消すという逃げ道もある。同時にネットは、人の欲望が可視化されやすい場でもあります。その欲望の可視化にどこかで歯止めをかけないとずっと闘争が続いてしまう。悪意を制限する仕組みが今のネットにはないんです。法整備の問題以上に、やはり倫理の面が重要になっていくように思えます。ネットマナーの問題でもいいんですが、例えば2ちゃんねるで書く仕方とか、はてなダイアリーでの書き方とか、またはTwitterでの書き方ってどれも違うわけですが、上手く使い分けるって意外とハードル高いんですよ。中学生や高校生も普通にネットにいるわけですが、そこで高いリテラシーを自力で獲得しろと言っても難しいし、だからこそチャットや掲示板でもトラブルが起きやすいんですよね。
田中:「流体現実の時代」にもそういう指摘をされてますね。「それぞれのSNS、掲示板、動画サイトに独自のコードが存在しており、それを見抜いて、あらかじめ自身がどう振る舞うかを設定し、失敗したらもう一度コードについて思考する能力。このような能力こそがカスタマイズ・スキルである。コミュニケーション・スキルが他人に対して直接働きかける能力だとしたら、こちらはアーキテクチャの性質への正しい理解を介して間接的に他人と接触する能力である。何かしらの事件に対して正論を述べ、それがmixi内でマイミクから好評を得たとしても、煽りが基本となっている2ちゃんねるのニュース速報板へ行って同じことを述べれば罵詈雑言を浴びせかけられることになるかもしれない。そうした事態を避けるためには場の性質への理解が欠かせない」(『BLACKPAST』63-64頁)。

坂上:それぞれのアーキテクチャごとのルールを察知する能力を身に着けないときつい、ということが言いたかった。それこそが「流体現実の時代」を生きるために必要な知識だという感覚があります。

2011年11月下旬新宿プリンスホテルラウンジにて

坂上秋成さんのTwitterのアカウント
https://twitter.com/#!/ssakagami
坂上秋成さんのブログ
http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/

坂上秋成(さかがみ しゅうせい)。文芸批評家。1984年生。純文学、ライトノベル、ビジュアルノベルを中心とした評論活動を行う。『ユリイカ』『早稲田文学』『週刊読書人』などに寄稿。また『BLACKPAST』の責任編集をつとめ、近刊予定に編集をつとめた『ビジュアルノベルの星層圏』がある。『BLACK PAST』のHP:http://blackpast.jp/

『ビジュアルノベルの星層圏』


著者近影