12月24日に行われた現代経済思想研究会の「特別セミナー:稲葉振一郎・田中秀臣・山形浩生「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」?で、中盤以降、ドライブがかかり始める契機となった、SFと社会政策の基礎、生存権をめぐる論点について、いま僕が思っているところを以下簡単にメモ書きしておきます。

??昨日のSFシンポは、生存権と人類絶滅という極限状態という状況を提起したあたりからが、自分でも面白く、もっとこの話題を深めるといいように思っている。そこからソフトな管理社会の話や戦争、ジェンダーの問題もすべて掬える。 

 人類の生存権を正当化するおおよそふたつの方向があって、ひとつが無条件的全面的生存権承認の流れ、もうひとつはリスク分散で生存権を正当化するもの。前者は社会政策の基礎、後者はどちらかというと経済学者の一部が採用する(ハイエク、サックスとか)。
 自分に危害が及ぶから他者のことも必要最低限面倒みましょうよ、というのがリスク分散型生存権の考え方(代表はさっき書いたハイエク)。
全面的無条件的生存権の認証は、いろんなヴァリエーションがあるが現代社会政策を支える基礎。その基礎は文化(=実はなにもない!)と指摘したのが、大正の岡田斗司夫である左右田喜一郎。それに進化人類学的な基礎を与えようとして頑張っている人もこの全面的無条件的生存権のヴァリエーション。
 で、従来の人類絶滅的あるいは厳しい環境内で、人類の在り方や個々の人間の在り方を問うてきた、SFもまたこの二種類の生存権的発想から整理することができる、というのが昨日の僕と稲葉さんが最初にはじめてた話。実際ここから話が面白くなったw
 全面的無条件的生存権のラインの極北は、『ハーモニー』の伊藤計劃(らしい。『虐殺器官』しか読んでない)、とクラークの『地球幼年期の終わり』。厳しい環境からの絶対的離脱で、なんらかの「生存」がはかられているから。
 リスク分散型生存権の方は、リスクを及ぼす「外部」が完全にコントロールされていれば無問題に保証される。『1984年』『すばらしい世界』、バラードの最晩年のソフト管理社会もの(『スーパーカンヌ』『殺す』など)がその論点にかかわる。
 絶対的無条件的生存権の方は、人類の精神的ないし肉体的な(無限な)可塑性を前提にしている(極端な例はさきほどのクラークと伊藤)。対してリスク分散型の方は、人間はなさけない肉体や精神をさらしたままで、むしろ周囲環境(システムやアーキテクチャ)が極限まで機能していく。 
 で、僕は現代SFの可能性はわりと後者の方なんじゃないか、と思ってる。リスク分散をはかるシステムやアーキテクチャに対して、いつまでもぶつぶつ文句をいうなさけない人間の意識や肉体のへたれをみせること、いつまでも解消されない「なさけなさ」「みっともなさ」。そんなことが昨日の話の一部。
 最後に注記すれば、いまの話は、SFだけじゃなくて、ベーシックインカムの正当性をめぐる右派左派の主張の基礎(全面的絶対的生存権の認証とリスク分散型生存権の認証)をめぐる話としても読める。BIやSFという点では共通してても相容れない人間の見方がそこにある。