松尾匡さんは立命館大学教授で、理論経済学を専攻する気鋭の論客でもあります。著作は豊富で、『不況は人災です!』(筑摩書房)、『商人道ノスゝメ』(第三回河上肇賞奨励賞受賞作をもとにしたもの、藤原書店)、『対話でわかる痛快明解経済学史』(日経BP社)などがあります。また市民参加型のまちづくりなど実践面での活動も豊富です。松尾さんは僕と同じく、いわゆる「リフレ派」(デフレ脱却して低インフレを目指す)にくくられています。

田中:福岡の経済圏の落ち込みは全国平均からみてもひどいですね。福岡には女性グループアイドルの取材できたのですが、若い人たちの文化の高まりの一方で、産業全体が疲弊していることが統計からわかります。

松尾:福岡の経済状況は悪いですよ。久留米大学の最後の学生(2008年4月から立命館大学へ)に円相場と九州の設備投資の増加率との推計をやらせたらきれいに相関したんです。

田中:設備投資とマネタリーな要因との実証は難しいじゃないですか。

松尾:それがちょっと期間ズレただけでバッチリ。自動車の部品工場とかたくさん九州は誘致しているのが原因かもしれない。

田中:円高は深刻ですよね。日本経済の構造でいうと昔風の表現でいえば「下請け」、マージナルな部分が先にショックを受けやすいですよね。雇用とかふつう調整に時間がかかるじゃないですか。でもマージナルな部分って意外と即応することもあって、景気の先行指標にすら使えるときがある。

松尾:うんうん。

田中:久留米大学も上武大学もそうかもしれないけど、新卒市場がどうなるかの先行指標として使えて、景気の先行指標としてもかなりいけることもある。経済が下降するといち早く悪化する。

松尾:わかります。

田中:だから本当に新卒市場の動態なんかをつかみたいんだったら経済学者は地方の私大の就職担当になるべきです(笑)。

松尾:そうそう体感でわかる。都市部だと同じレベルの大学でも地方よりはるかに大企業などに決まりますよね。

田中:ところで松尾さんのやっている仕事と関連するでしょうけど、左翼であった人たちの「失敗」の中でも内ゲバについての考察に興味があります。なぜ内ゲバが発生し、しかも長く続くのか。数年前のニュースですが、地方の誰もいない無人駅で、60歳以上の老人ともいっていい男女が内ゲバで殺し合ったというものがありました。まさに殺伐とした心象風景の極致のようです。60代たぶん真ん中よりも上だったと思いますが、ふつうの感覚であれば白昼の屋外での殺し合いなどするほどの動機がなぜもてるのかわからない。これは左翼の人たちの問題なのかどうか。テロ集団にもほどがあるだろうと。日本の中のウェットな風土とも関係するのか、あるいはそうじゃなくて、合理的ななんらかの理屈があるのか。

松尾:もともと戦前、軍隊の派閥争いもそうだったし戦前の右翼もそうだったし、いわゆる身内集団原理でやっているんじゃないのか。

田中:松尾さんの『商人道ノスゝメ』にでてくる身内集団原理ですね。身内集団原理は日本だけではなく合理的な理由なのでどこでも発生する可能性がある。長期にデフレが続くと身内にとどまらざるをえないじゃないですか。簡単に次の職場がみつからないとか、親がお金がないので大学は遠くへいけないので地元の大学を選ぶとか、地域や特定の組織にとどまって、場合によってはそこで過剰適応を迫られる。身内への過剰適応、つまりさっきの内ゲバ的な風景を日本全体にもデフレは広めているかもしれない。出口なしの状況については、長期停滞が続くとより悪化していくのかもしれない。停滞が長引くことで、構造的な問題が新しく出現したり深刻化する可能性も否定できない。典型的には履歴効果があります。いまの話もデフレによる身内集団原理の強化という側面かなと。例えばこれだけデフレが続くと、一種のデフレカルチャー的なものが若い人のマインドを支配するかもしれない。

松尾:ついに田中さんも構造主義者に(笑)

田中:ただまあこの種のデフレカルチャー的なものって、疑似的な構造問題の側面が強いし、さっきいった履歴効果なども同じで、景気が良くなるとほとんど解決できてしまうかもしれない。例えばイギリスも戦後長い間、長期停滞に苦しんでて、いわば停滞カルチャーの象徴としてザ・ビートルズとかがあった。みんなビートルズになっちゃうとか(笑)。でもサッチャー改革の成果というよりも、為替レートの調整の問題、つまり名目価値の変化で、イギリスは停滞から離脱した。ビートルズは長期停滞は「反抗」のシンボルだったかもしれないけど、景気がよくなると今度はそれを世界に売り出そうとか(笑)。ところで松尾さんは長期デフレの中でふたつの処方箋で問題に取り組もうとしているように思えます。ひとつはより構造的な問題―疎外の問題―にはアソシエーションで、またデフレそのものについてはリフレ政策で、政策を割り当てて、この長期デフレに対しているように思えます。リフレはわかりますが、このアソシエーションについてデフレが長期化するなかで変容を迫られていますかね。

松尾:それはそうだと思います。アソシエーションでもいろいろな意味がありますが、いまの文脈だとNPOとかNGOとかで、政治権力をとるんじゃなくて、それは後回しにして、まず事業として民間から変えていきましょうという意味ですね。で、現実、不況の中で労働者管理企業をつくっても困難が大きいですから。だいたい不確実性がたくさんある中で起業しようと思っても踏み出せない。

田中:でもおかしなコンサルタントは、不況だからこそ起業を学生にすすめたりしている。

松尾:どれだけ死屍累々しているかと。

田中:停滞が続くとどこかに歪みはいきます。マージナルな部分に特に負担がかかる。典型的には若者たちではないか。若者たちの困難を解消するのがいまの高齢世代の責任じゃないかとも思います。過去にもいろいろな改革が政治的にうたわれてきて、典型的には小泉構造改革だとか、いまの橋下主義といわれるものもそうですが、国民の支持を集めている多くの改革が、ハイエクのいう設計主義的なもので、市場の自律的な方向を尊重するというよりも、「市場化」を政府自体が過度にすすめる方法という経済学的には関心しない手法を採用しています。設計主義こそ過去の反省を踏まえて否定的にみなされなければならないのにそうなっていない。

松尾:そのとおり。過去の反省という次元で考えると、左翼の場合、いろいろ論点はあるけれど、ひとつは「責任」ですよ。現実の生きている状況を考えて出発するんじゃなくて、設計主義的に方針を考えて、歴史の法則みたいな天下りみたいに考えて世の中を変えていこうとする。いろんな人たちに影響を与えながらも責任はとらない。

田中:それは歴史の法則のせいだと(笑)。グローバル化もそれにつかわれやすい。日本銀行も使う。産業構造のグローバル化への適応不全であるとかいう。これらの発言は何が原因かというと、さきほどもでてきた身内集団原理ゆえでしょう。責任がこの原理のためにあいまい化している。例えば、日本銀行が断固反対しているインフレ目標だと、日本銀行は責任をとることに事実上なるので、それは身内集団原理上、絶対とらない。ところで松尾さんの最近の関心はなんでしょうか。

松尾:労働者自主管理企業、NPOなり、過去の経験だとやはり腐敗することが多かった。それはどんな理由なのか考えてます。責任の問題も関係してくる。いろんな人たちに影響を及ぼす決定をする人が、その影響に応じてリスクをかぶるか。リスクをかぶる人と決定権が一致するかどうかに焦点をあててます。もしこれがズレたときに利害関係者に影響を与えていても責任をとらなくなる。その仕組みをはっきりさせたい。

田中:それは面白いですね。僕もスペインの協同組合であるモンドラゴンについて調べたことがあります。そのときに思ったんですが、消費協同組合はわりと成功しているのに、生産協同組合はあまりうまくいかないのはなぜかという点があります。これも松尾さんの問題意識を引き継げば、責任のシステム構築がうまくいかないせいかもしれませんね。

松尾:いろいろなレベルの問題があると思いますが、すごく資本主義的になってしまうのは、情報の依存関係があるのに、情報の共有ができていないことがある。例えば、自動車をつくっている労働者協同組合があるとしましょう。デザイナー、技術者などがいて、デザイナーは自動車のデザインを技術者に見せる。技術者は売れないなあと本心は思う。でも素人なのでこのデザインを受け入れてしまう。でも技術的に難しいところがあるのでそこだけ変えてもらう。デザイナーも技術的なことがわからないから、そんな風にいわれたら仕方がないのでかえてみた。そしてその車を売り出す。結局、売れませんでした、という時に、技術者はデザインがもともとダメだったと、デザイナーは技術者がもっと頑張ってくれればよかったと思う。お互いにそういう風に思うから同意が得られないし、責任が誰にあるか確定できない。新しいことをやろうとしなくなる。そういうときには資金を外からもってくる人がいて、責任は自分がとると、働いている人には一定の給与を出しますよ、というとそっちの方がよくなる。

田中:以前、このReal japanの対談で西森路代さんが、K-POPの方はカリスマ的な経営者が全部責任を持つことことがわりと多く、日本のアイドルの方は分業化しすぎて誰も全体に責任をもつ人がいない。ただ日本でも成功しているアイドルを抱えているのは総合的な責任を負う人が多い。秋元康だとかつんくだとか。いまの松尾さんの話だと情報の分業化をすすめていくととんでもない隘路に陥る可能性があることを示してますね。

松尾:そういうときにどうするかというと分業をあまり激しくしない、話し合いをするという解決方法。もうひとつは、そもそもリスクのあるとことに手を出さないという方法があります。

田中:松尾さんの議論は、かってラディカル派経済学のスティーヴン・マーグリンが「ボスたちはなにをしているのか」で採用した問題意識に近いように思えますね。さきほどの積極的な解決法の方ですが、チームワークをうまく構築するということと、ボスの責任をはっきりさせていくということでしょうね。

松尾:そういう外にたつ人が責任をもつことは資本主義的になる。もしそれが労使関係でいまくいくならいいんですが、よくあるのは自分はワンマンでやりたいことをやるけれど出資者ではないので責任は取らないというパターンです。労働者管理企業や非営利企業が腐敗していってしまうルートはそれなんだと。ワンマンにするなら、はっきり資本主義的にして労使関係で責任を資本家にかぶせればいい。

田中:お金に損しないからワンマンは専制君主のようにふるまうだけ。

松尾:そうその通り。

田中:東電なんかもそうですね。

松尾:まったくそうですね。

田中:やり逃げです。

松尾:やり逃げですね。いまだと地域独占企業は一回つくったら死んでも守るみたいになる。さっきの話と同じだけど、資本主義原理にするなら資本主義でやったらいい。そうじゃない中途半端なものをつくると本当に腐敗する。難しいのは事業の及ぶ範囲がどれくらいかということ。いろんな人に影響を及ぼすんだけど、従業員だけで話し合っているといろんな問題が生じている。

田中:さきほど消費協同組合の方がわりとうまくいくというのは、最終消費者を含めてネットワークの範囲が狭い。調達、販売、消費の3つにわけて、その調達と消費の距離もわりと近い。スーパーにいくと、「私はつくりました」というステッカーで誰がつくったのとかわかるような感じ。でも車だとひとつひとつのパーツが誰がつくったのとかわかりずらい。責任の在り方が不透明になりやすい。

松尾:現実の例をみても労働集約的なところが成功事例で多い。介護はその典型ですね。あまり川上にさかのぼらなくてすむから。私の大学院時代の先輩で、兵庫県立大学の三上和彦さんという人がずっと研究しているのが、企業の決定権(主権)をどこに配分するのかという問題。労働者に配分するのか、経営者に配分するのか、消費者に配分するのか。企業の主権の配分はその事業で最もリスクを負担するところに配分すべきだとする。そうするとリスクと決定の責任が合致する。そうしないと非効率が生じる。

田中:いまは労働の現場をみても、末端の労働者にリスクがいっているのに、経営者は責任を負わない。そうなると非効率が生じてしまい、労働の現場が腐敗していき、過度な労働が行われるブラック企業になったり、逆に昔の町役場みたいに窓口の係員がまったくたるんでいるように見えることもある。前者のブラック企業の方はリスクを過度にかぶってチームワークで切り抜けようとしているんだけどそのチームワークはとてつもなく個々の労働者を苦しめてしまう。後者の方はリスクをかぶること自体を拒否してともかく新しいことはやらずに怠惰に日々を受け流す。こういうのもリスクと主権のアンバランスによるんでしょうね。

松尾:私も三上さんを真似たのを書いたのが、なぜ沿岸漁業は株式会社ではないのか、というもの。漁業のとらえ方いろいろあってふつう主流になっているのは「共有地の悲劇」で解く場合が多い。私のモデルでは、それはまったく省略して、労働現場のリスクに焦点をしぼっている。つまり「舟板の下は地獄」というやつ。そのリスクにかかわる情報が現場に偏在している。そういうことを漁民の人がよくわかっている。

田中:さっきいったブラックになるか、あるいはだらしなくなるか、という現場の在り方と同じですね。現場に過酷なリスクの情報が偏在している。

松尾:そう。だからよく現場のリスクをしらない資本家がたかが漁船ぐらいの資本を出して主権をにぎって、よく知らないのに出漁しろとか命令するとしましょう。それで事故ったら経済的に非効率的になる。また損害賠償も高くついてしまう。それではというので、一定の給料を与えて、さらに出漁の決定権を現場に与えると、今度がなんだかんだいって出漁しなくなる。結局、収入と生産と連動しないとそこはいけない。つまり生産と収入を一致させ、現場がリスクを負い主権も責任ももつ。

田中:その議論は日本銀行に応用できるね(笑)。リスクと主権の配分に日本銀行は失敗している。

松尾:その話にどうしてもいきますか(笑)。いまの日銀法での日本銀行の在り方は司法権のようです。行政の決定と司法の判断の違いは、司法は責任をとらないから司法なんです。自分の判決の結果に対して責任をとらない。もともと、過去の判例の積み重ねに拘束されて、リスクの高い新判断をしてはならないものなのだから、これでいいのです。

田中:たぶんいまの新日銀法をつくるときに政府からの独立を強調するあまり、司法権の独立をモデルにしているのかもしれない。いまの日銀は日本の民主制度の中で浮いた存在になっている。最高裁ならば国民審査という形でまだ責任が問われることもある。日銀はそのいみでも日本の司法の在り方よりもさらに極端な無責任主義に陥っている。日本の権力構造の中で日本銀行は特異ですね。

松尾:行政の場合は責任をとらなければいけない。行政にはいろいろ新しいことをやるということがくっついている。状況が変化したのに対応して、どうなるかわからないリスクがあるけどとりあえずやってみるのが行政。だからまずいことをやったら責任をとる。

田中:日銀の方は行政なんだけど責任のシステムがないので、疑似的な司法権になっていると。

松尾:そうですね。まさに制度の設計ミスです。

田中:たしかに司法的なものとして制度設計されていることに、いまの日銀の問題を見出すというのは面白い指摘ですね。九州まできてよかった(笑)。

2011年12月末 博多駅のレストランにて

松尾匡著『不況は人災です!』(筑摩書房)