1 経済復興を阻む日本銀行の歴史観

 野田佳彦首相と白川方明日本銀行総裁が、(2011年)10月11日、都内で会談した。総理大臣と日本銀行総裁が直接会うのは実に9か月ぶりのことだ。
リーマンショック以降の長引く不況、そして東日本大震災、最近の円高の加速など、日本の経済不安は高まるばかりで光明を見出していない。
このような未曾有の国難といっていい事態でも、この国の経済政策の両輪を司る首脳が会合をもったのは、この一年にたった二回だけ。しかも法的な根拠のないただの「お茶会」とでもいうべき儀式でだ。
わが国の経済政策の貧しさをこれほど象徴している出来事はない。政策を真剣に行うという態度の欠如、と言い換えてもいいだろう。
例えば、現在の政権の最大の課題は、増税政策であろう。早々と大震災発生三日後に、管直人前首相が、自民党の谷垣偵一総裁との会談で、増税を強調している。人命救済や復興に優先してまでも、ともかく増税をすすめることが、民主党政権のアイデンティティになっているようだ。
経済復興のための財源調達方法については、本誌7月号「徹底討論! 日本経済復活のシナリオ」でも強調されているように、日本銀行の長期国債の直接引き受けを利用し、18兆円の財政資金を投入する方法が、最も経済に負担を与えない手段だ。これは1年以上の長期国債を政府が発行し、それを日本銀行が紙幣との交換を行うことを意味する。政府はそれで得た長期資金をさまざまな経済復興の財源に利用することができるのだ。しかしこのような日本銀行の長期国債の直接引き受けをめぐっては、首相も日銀総裁もきわめて否定的だ。
例えば、野田首相は国会で、いま説明したような長期国債の直接引き受けは、日本銀行法によって禁止されていると答弁している。もちろんこれは野田首相の認識不足であり、毎年のように政府は日本銀行に国債の直接引き受けを行うように議決していて、今年の実行枠は30兆円ほどである。このうちすでに実施された分は、12兆円。さきほどでてきた18兆円という数字は、この残額を示す。
野田首相の答弁とは異なり、国会の議決がすでに行われているので、残り18兆円の国債直接引き受けを、いつでも政府は日本銀行に対して実施するように命ずることができる。だが、先ほどの野田首相の姿勢から見ると、その実行は難しそうだ。あくまでも政権の目的は増税そのものにあるので、増税しないですますことのできる経済政策はすべて却下されている。
またこの日本銀行の長期国債の直接引き受けについて、最も極端な反応を示しているのが、当の白川日銀総裁だ。例えば総裁は、今年の5月に行われた日本金融学会の席上で、長期国債の直接引き受けは、通貨の信認を低下させて、ハイパーインフレーション(きわめて高いインフレ率)をもたらすと発言している。中央銀行総裁が、公の場で、自国の通貨の信認の低下に言及するのはきわめて異例であり、その意味からも日本銀行がこの長期国債の直接引き受けにただならぬアレルギーをもっていることがわかる。
ところでここで不思議な歴史的なパズルがある。そもそもこの長期国債の直接引き受けで、経済復興をなしとげたのは、ほかならぬ日本銀行だったからだ。ただし昭和恐慌の時代、高橋是清蔵相と深井英五日銀副総裁のコンビによって事実上実施されたものだ。日本はこの日本銀行による長期国債の引き受けという超金融緩和と「ケインズ」的な財政政策の組み合わせで、世界恐慌と深刻なデフレが続く先進諸国のなか、もっともはやい復活をなしとげた。わたしはこの政策の組み合わせを「リフレーション政策」(略してリフレ政策)と名付けている。リフレの意味は、大恐慌の特徴であったデフレーション(物価の持続的下落)をとめ、緩やかなインフレ状態にもっていき経済を活性化することである。
当時の深井英五日銀副総裁は、日銀引き受けの国債発行を、「一石三鳥の妙手」と呼んだ。一石三鳥とは、潤沢な市場への資金提供、積極的な財政政策が行えること、さらに国債の安定的な消化につながるからであった。まさに手放しに近い絶賛である。
だが、いまの日本銀行にとって、戦前のこのリフレ政策の「成功」は、同行の歴史に残る最大の汚点として刻印されている。そのことは、いまの日本銀行総裁の発言からもわかるだろう。
このような日本銀行の立場の転換は、いつ、どのような理由で生じたのだろうか?
私の見解では、その主要な歴史的起源はふたつだ。(1)極東軍事裁判で採用された史観の影響、(2)(マルクス経済学者ら)左翼系知識人の影響、である。いずれも戦後まもなくの出来事だ。
 この二つの原因が、リフレ政策を「失敗」と決めつけ、その後の日本銀行の歴史観そのものになっていった。白川総裁は、前例踏襲的にこの戦後生まれの日銀の遺伝子を継承していると思われる。そして野田首相もその遺伝子を継承しているのだろう(彼は官僚たちの受け売りが大好きだから)。
 この日本銀行の反リフレ政策=デフレ志向の政策観について、終戦直後から一貫して戦った人物がいる。石橋湛山、東洋経済新聞社の社主であり、また戦後は大蔵大臣の職を務め(任期中に公職追放)、そしてやがて総理大臣にまで上り詰めた人物である。

2 石橋湛山、誤った歴史観との闘い
 石橋が極東国際軍事裁判で被告側の弁護を行おうとしたことは、彼の戦前から戦中にかけての活動を研究するものにとっては、ひとつの興味深い論点である。石橋は、『東洋経済新報』誌を舞台に、経済的帝国主義(日本の行き詰まりを海外領土や権益拡張で打破する考え方)を「大国主義」として、自らの立場(=小国主義)から一貫して批判してきた人物だった。そのため、この極東国際軍事裁判での弁護は、あたかも「大国主義」そのものの弁護のように受け取られ、石橋の立場と矛盾するかのように解釈されかねない。しかし私見によれば、そのような解釈は皮相なものである。
 むしろ石橋が極東国際軍事裁判で日本の立場を弁護したことは、彼の小国主義と経済政策の立場(リフレ主義)からいって必然的なものだったといえる。
『極東国際軍事裁判』の「弁護側証拠書類」に、石橋の反証書類は整理されている。ただし証拠として正式に採用されたものは、石橋の提出したもののうちごく一部で大半は不採用に終わっている。
石橋は当時、東洋経済新報社長、大蔵大臣であり、この弁護依頼をうける数日前にGHQから公職追放の指定をうけていた。マッカーサーをはじめ、GHQでは石橋を頑固なインフレ主義者ととらえ、その政策観と態度を、後にドッジ・ラインで頂点を迎えるインフレ対策の障害としてみなしていた。
 さて当時の検察側の主張は、明治以降の日本の工業化が軍事目的であり、また昭和恐慌からの回復が、特に日本の対外的侵略に帰結したことを立証することに重点が置かれていた。
 これに対する、石橋の反論は、まさに真逆であり、日本の工業化が侵略戦争を準備するものではないことにあった。
 戦前の日本の経済と政治の特徴は、人口過剰の圧迫から発生していると石橋は断じる。人口増加ゆえ財政がひっ迫し、食糧自給が不可能になる転換点が近いという危機意識が日本には蔓延していた。
 この人口増圧力に対する日本の政策は、工業化の推進と外国貿易の自由化の奨励、であった。そのために各国との平和的な協調(小国主義)こそ、日本の最善の選択でもあった。
 だが、日本の工業化は、1910年代終わりから30年まで「不景気時代」で停滞してしまう。この原因は、政府と日本銀行が採用した増税による財政均衡主義とデフレ政策であった。
「併し此の不景気時代は日本に於ては一九三一年を以て終り一九三二年からリフレーション政策が取られた為め工業も亦俄然繁栄期に入り」職工の数も増加した。一九一九年と一九三一年のそれに比して、リフレーションによる繁栄によって職工数は倍増。「一九三一年以来の比較的急速の進歩は実はその年以前十年間の遅滞を取り返す運動であつたに過ぎず何等異常の進展ではなかった」。
 このように石橋は、東京裁判における連合国側の主張である、侵略戦争のために31年以降急速に日本が工業化していったという主張を否定した。
 さらに石橋は31年以降の経済の加速化も軍備を整えるための拡大政策ではなく、デフレがあまりに経済を低迷させたために、そこからの回復が急上昇にみえただけである、と指摘した。そしてむしろ貿易、諸外国からの経済的圧迫などが、日本をやむを得ず戦時体制に追い込んでいくことになった元凶である、と石橋は断じている。
 しかし、裁判ではこの石橋の経済史観が勝利を得ることはなかった。事実として彼の発言はわずかな部分が証拠として採用されただけであり、満足な審理もされずに忘却された。あとには、この裁判の残した通説―戦前のリフレ政策は結局、戦争拡大と敗戦を招いた、という負の遺産が残された。

3 ハイパーインフレーションの神話を打ち破れ

 『日本銀行百年史』という日本銀行の“正史”では、戦後のハイパーインフレーションは、高橋是清蔵相の下での国債の直接引き受けに始まるとし、その危険性が強調されている。戦後の混乱時期を生きた多くの人が、生活必需品をはじめとした物資の高騰に悩まされ、また預金封鎖や新円切り替えなどで財産を喪失した思い出を語ることが多い。
 他方で、戦後のハイパーインフレーションについては、その実体経済に与える影響は不思議なほど議論されてこなかった。ほとんど生活実感から、戦後のハイパーインフレは必然的に実体経済にもマイナスであったと信じられているようだ。
 しかし真実は必ずしもそうではない。実際には日本経済の戦後の復興に、この「ハイパーインフレ」はかなりの貢献を果たしたといえる。以下は、岩田規久男氏(学習院大学教授)の戦後ハイパーインフレーションについての新解釈に大きく依存している。
 ハイパーインフレーションの定義はさまざまだが、最近の海外の事例であるジンバブエのように年率1万%の上昇率をもってするものや、IMFの定義のように10%台を上回るものまでさまざまだ。いずれにせよ、一万%にははるかに及ばないものの、日本が昭和21年から昭和23年まで、最高で514%、最低でも170%台のきわめて高いインフレに襲われたのは事実である。
 当時のハイパーインフレーションの原因は、生活物資の不足を中心とした供給能力の低下があり、また同時に、復員軍人への手当や軍需工場への戦後補償、また復興金融公庫による復興資金の膨張に求められる。一方での供給の絶対的な不足と、他方での大量の貨幣の流通という経済全体のアンバランスが生じていた。
特に大量の貨幣発行は、日本銀行の国債の引き受けが手法として選ばれていた。ここに今日の日銀が国債の引き受けを批判する根拠のひとつがでてくる。
この21年から23年のハイパーインフレの時代の過半を、蔵相として勤めたのが石橋湛山であった(22年五月に公職追放をうけたが、23年度も基本的に石橋の財政路線が踏襲されている)。そのため、当時の石橋はインフレの責任者として厳しく批判された。
しかし石橋のインフレに関する持論にはいささかも揺るぎないものがあった。以下に蔵相当時の彼の見解を端的に示す発言を、やや長いが引用しておきたい。これは戦後のGHQの検閲資料を収集したプランゲ文庫で、私がたまたま発見した『石橋湛山全集』にも未収録の講演原稿からである(「インフレ対策と経済安定」昭和21年9月10日発行『特集雑誌 自由国民 通貨不安はどうある』掲載)。

「なほ、インフレの問題が非常にやかましくなって来たのですが、私はかねて申す如く日本の終戦以来のインフレというものは、成程インフレには違ひないけれども、普通に謂ふ意味のインフレとは性質が甚だ異なって居る。(略)
言いかえれば政府が財政上の必要から通貨の発行を致したのではなく、国民諸君が銀行から預金を引き出した、或は終戦後経営困難に陥った諸会社が、その経理を続けるために銀行から金を借りた、斯う云ふことで、つまり民間の必要から起こった紙幣の膨張です」。

 つまり生活必要品の著しい欠乏、石炭、鉄鋼、肥料などの基礎的な資材が不足していたことに、インフレの究極的な原因がある。一般に信じられているような財政危機の深刻化からくる「悪性インフレ」ではない。実際に、日本政府の抱えている負債の多くは、同時に自国民の資産であり、純債務はわずかなものでしかない。また戦後賠償のハードルは著しく低いことが当時から予想されていた。その意味では、今日でいえば、ギリシャのように対外債務の結果の「財政破たん」的状況にははるかに戦後の政府の状況は遠かったといえる。
 石橋の発言をさらに引用しよう。

「大体において悪質インフレといふものは、政府の財政の膨張が紙幣発行になる場合です。若しくは政府の財政が止め度なく膨張致し、それを紙幣の発行で賄ふならば、インフレは何処までも進んでいくか分かりません。然るに終戦後の紙幣の膨張は、謂わば過去のインフレが紙幣の形になって現れたと申すべきものです。戦時中若しくは終戦直後に出来た預金が引き出された、或いは会社の経理が苦しくなって銀行から借金をした、その借金は何かというへば戦時中膨張した会社の会計を、終戦後の生産の停滞した場合に維持する必要から、已むを得ず起こったものです。斯様なインフレであるならば是は必ず停止すべきものである。
 言いかえればあのインフレは成程一面に於いては紙幣の膨張になりましたけれども、同時に経済界の大きな恐慌を伴って居つたのです。経済界は非常な恐慌であり不景気であると云ふのが現状であつて、普通にインフレに伴ふ景気現象はないのです。ここに今日の所謂インフレというものが、普通に云はれるインフレと非常に性質が違ふ所と私は考える。これは恐慌の問題であり、不景気の問題である。そうすると、どうしても八千万の国民が働けるように早く経済界を立て直し、生産を増進することが根本問題であって、徒にインフレを恐れて、消極策を採り、益々生産を阻害して国民各自の働きを鈍らせることがあっては、せっかくインフレを防止しようとしても、其の目的に甚だ反するものと思ひます」。

この見解に立脚して、石橋は蔵相就任後の財政金融政策をすすめた。岩田規久男氏によれば、高率なインフレの一方で、日本経済は高度成長期並みの成長率を達成した。昭和22年の実質成長率は11パーセント、実質個人消費も9パーセントの増加、日本銀行の国債引き受けによる資金調達が効果を発揮し、民間の設備投資の落ち込みを政府投資が93パーセントも増加して経済をけん引した。また事実上の石橋財政が継続した昭和23年もまた実質経済成長率は16パーセント、個人消費は13パーセント、そして民間投資も復調し10パーセントの増加であった。またインフレ率も、成長率の急回復と民間の生産の復活をうけて急速に低下しはじめた。
 しかし、このようなインフレ政策は、マッカーサー自身とGHQの手厳しい反応を生んでしまった。そのことが、石橋の公職追放につながり、また昭和24年度からのいわゆるドッジ・プランによる超緊縮財政とデフレ政策に帰結していく。このドッジ・プランによって、物価は急激なデフレを経験し、実質経済成長率、民間投資なども急減した。また失業率も急増し、物価安定の代償として日本経済の戦後復興は大きく頓挫した。これは占領政策が、日本をかってのように経済発展させるか、あるいは停滞させたままでおくかの方針の点で、大きく後者に傾いたせいかもしれない。
 結局、日本が本格的な戦後復興の道についたのは、朝鮮戦争による特需景気をまってのことになった。日本の自主的な経済政策による戦後復興はこうして葬りさられた。

4 デフレ志向の知識人たちとの攻防

 ところでデフレ的な政策を好んだのは、GHQだけではなかった、例えば、当時、およそすべての財価格や賃金などの決定を握り、予算配分も決定していたスーパー行政機関に「経済安定本部」があった。経済安定本部の超越的ともいえる権力は、いまの財務省以上のものであり、その理由はGHQが背後に存在していたからであった。事実上、GHQの経済政策の最上位のエージェントとしてこの組織は機能していた。
経済安定本部の長は総理が兼務したが、実質的にこの組織をとりもち、GHQとの調整を担ったのは、都留重人(当時、経済安定本部総合調整委員会副委員長、後の一橋大学学長)であった。彼は作家の水木楊氏によれば、当時「都留天皇」と陰で形容されていたという(水木楊『エコノミスト三国志』)。
 都留は、戦前にハーバード大学で学び、そこで「近代経済学者」のワシリー・レオンチェフやポール・サミュエルソン、そしてマルクス経済学者のポール・スウィージーらと交流を重ねた新進気鋭の経済学者でもあった。そして彼はまた、戦時中から、リフレ政策に批判的であることでも知られていた。
 戦後の都留のイメージは、サミュエルソンのベストセラー『経済学』の翻訳のせいもあるのか、ケインズ主義者のイメージが強い。しかし、むしろ彼の一貫した立場は、ニューデール政策(リフレ政策)への否定的な見解を含めて、むしろ反ケインズ主義的なものだ。
 なぜか都留の著作集では無視されている彼の処女作に、昭和19年に東大で行われた講義をもとにした『米国の政治と経済政策』というものがある。それは経済不況が市場がうまく解決できない問題であることを示す一方で、その対策として出てきたケインズ的なニューディール政策の効果がはっきりしないことも主張していた。都留によれば、むしろニューディール政策によって、雇用を最大化することが優先された結果、米国は日本に対する戦争を採用することになったと断じている。
 この見解は、勘のいい読者にはおわかりだろうが、先に極東国際軍事裁判で検察側が提起した史観を、米国側に適用したものといえる。つまり米国でも日本でも、リフレ政策は戦争に帰結し、それによって不況から脱出した、ということである。
 都留の反リフレ志向は徹底していて、当時、経済安定本部に出向していたリフレ主義者の下村治(のちの池田勇人内閣のブレーン)が、石橋と同様なインフレ観を報告書で提出したときには、徹底してそれを排撃した。
 「都留天皇」と、やはりインフレ嫌いであったマッカーサーを頂点とするGHQは、デフレ志向と財政均衡主義で、かなり歩調を合わせたものだったことは確かである。
 また終戦直後から、社会的な言論の場では、マルクス経済学の地位が著しく上昇していた。特にその最大のスターは、東京大学の大内兵衛であった。大内は戦争中から日本銀行や大蔵省での財政・金融政策のアドバイザーとして有力な存在であった。
 大内はしばしばラジオ番組に出演して、国民に対してインフレを警戒するように呼びかけた。特に昭和20年10月17日の放送は、歴史家のローラ・ハイン氏の表現を借りれば、「とほうもかく大きな衝撃力をもっていた」(『理性ある人びと 力ある言葉 大内兵衛グループの思想と行動』)。
 大内はそのラジオ講話の中で、石橋の前任者であった渋沢敬三蔵相に呼びかける形で、いまのままの財政・金融政策では、かならずハイパーインフレーションになると警告したのである。
大内の放送は、まさに政策を変えた。渋沢は、預金封鎖、新円切り替え、戦時補償打ち切り、物価統制、財産税などの政策を矢継ぎ早に連発した。これらのインフレ対策はGHQの支持を得てもいた。
しかし石橋湛山は、この大内のラジオ講話を代表する知識人たちのインフレ警戒の声こそ、国民のインフレへの不安を顕在化させ、インフレ期待に火をつけた元凶にみえた。
 「私は昭和20年の終戦直後、内外の情勢から推断し、日本には激しいインフレを発生するごとき外力の圧迫が起こる危険はないと予言した。ところがその頃の日本の多くの学者、評論家はほとんど一致して(あるいは今日でも同様であるかもしれぬが)あらゆる悲観材料を数え上げて、インフレ必至論を高唱宣布した。後にもいうが、終戦後の日本にインフレ傾向を促進した最も有力な原因は実はこれらの悲観論であったというても、過言であるまい」(石橋湛山『戦後日本のインフレーション』)。
 この指摘は、今日でもマスコミを徘徊している「日本はギリシャのような財政危機に直面している」とか、白川総裁自身の口から出るハイパーインフレーションの危険性を警告しているかのようである。
 現在のデフレの継続が、白川総裁をトップとする日本銀行首脳が引き起こしているものであり、またハイパーインフレーションの危険さえも日本銀行が引き金を引くとしたら、悪い冗談をみているようなものであろう。白川総裁は軽々とハイパーインフレーション(通貨の信認の低下)の危険性を口にすべきではない。
 先の講演の最後で、石橋は不安を煽りインフレやデフレを引き起こす政策ではない、経済の活性化に役立つ「目標」を提起をしている。

「何よりも先に生産を殖やすと云ふことに着眼しつつ、同時に金融、通貨、物価などの調節を図る、ここに中心の目標がなければならぬを私は信じて居るのであります」。

 このような政策を今日に生かすものとしては、1~3%の緩やかなインフレを「目標」とし、雇用の最大化をはかる政策が提唱されている。だが、終戦直後と同じように反リフレ勢力は依然として健在だ。この負の遺産を破ることこそ、本来の日本の経済的独立といえるのかもしれない。

『正論』2011年7月号掲載原稿