亡国経済学とは何か

 「亡国」とは文字通りでいえば、日本という国が消滅することである。それを目的にした経済学はあるのだろうか? 答えはイエスである。その歴史はかなり古く、ルーツは戦前にまで遡る。また「亡国」の定義を、日本国民の生活水準をあえて意図的に低下させること、という意味に解すれば、その種の亡国経済学の論者は昔もいまも枚挙に暇がないほどだ。
 亡国経済学の基本的な特徴は、日本が深刻な長期停滞に陥っていて、すでに通常の景気対策などでは根本的に立ち直ることができない、そのため日本の構造的な問題を一挙に解決するしか道はないと唱えるものである。
 例えば、日本国が消滅するという意味での、亡国経済学を唱えた代表論者にロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの教授だった森嶋通夫(1923-2004)をあげることができる。森嶋は、日本は没落の過程にあるという。その原因は、主にふたつ。ひとつは、日本の人口減少による経済成長率の低下。もうひとつは、「人口の質」の低下である。後者の「人口の質」とは、教育の質が低下したことに求められる。さらにわかりやすくいえば、日本人のモラルや民度が低い、ということだ。またそれを助長するような、日本的な雇用システムのあり方もまた問題だとする。例えば単に偏差値が高いだけで、大企業に入り、そのまま終身雇用や年功序列の世界で保護されていく。他方で偏差値が低いというだけで、中小企業に入り、相対的に低い条件での就業を強いられる。このような大企業と中小企業の「二重構造」が、「人口の質」の低下とともに、楔を穿ったように日本の構造問題として成立している、と考えた。そしてこの構造問題の解決は、彼によれば「亡国」に求められた。
 もちろん森嶋は「亡国」とはいってはいない。もっと穏便な形容で、「東北アジア共同体」と称している。これは、日本、中国、朝鮮半島、台湾、琉球(彼はなぜか日本と沖縄を区分する)を政治的・軍事的・文化的に統合する。その上で領土を人為的にいくつかのブロックにわけて統治する、という主張をした。いまもたまに話題に出てくる「東アジア共同体」構想が、どちらかというとユーロ圏などを念頭においた通貨統合を図るものにくらべると、非常にドラスティックである。この森嶋構想では、もちろん日本は消滅する。かっての日本人たちは、それぞれの共同体のブロックの中で、必死に新しい環境に適応するために努力する。日本人のモラルは高められ、共同体の精神に奉仕するだろう…というのが森嶋の亡国経済学の骨子だ。
 トンデモ構想である、と断定すればいいだけに思えるが、実はこのような解決方法は、冒頭でも書いたように、戦前からある。例えば、昭和研究会は、そのような主張をもつ人が多かった。
 昭和研究会とは、1936年11月に近衛文麿の私設秘書だった後藤隆之助が中心になり、各界からの人材を登用して、近衛の私的な政策ブレーン集団のことである。昭和研究会は、経済、政治、対中国・欧米との外交問題、教育、文化など多様な話題について政策提言をまとめ世の中に公表し、その啓蒙に努めた。その構成メンバーは、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実や、笠信太郎、三木清、?山政道、松本重治、佐々弘雄らが参集した。特に同会の経済政策の担当は、笠信太郎と三木清であり、このふたりの提唱したものは、先の森嶋と同様に日本亡国論=大東亜共栄圏論であった。
 笠の代表的な著作であり、当時のベストセラーに『日本経済の再編成』(1939年)という著作があるが、そこでは資本主義でも社会主義でもない第三の道として、共同体(=大東亜共栄圏)にコミットすることで、高いモラルを得ることができ、そのことによって単なる営利心以上に頑張るようになる、と説かれている。先の森嶋通夫の日本亡国論は、この昭和研究会の延長上にある発想といえるだろう。

清算主義とシュンペーターの「春の大掃除」
 ところで昭和研究会でも森嶋通夫でも、これら亡国経済学にはひとつの前提があった。それは、日本がもう普通の景気対策では復活できない、日本は構造的な低迷の中に埋没しているという信念である。この構造的な問題を解消するために、亡国という厳しい環境の中で「日本人」をシバキあげれば、日本の成長が促されるという妄念に彼らはとりつかれていた。このような厳しい環境で国民をシバキあげることで、日本経済を復活させようという考えを、経済学では「清算主義」といっている。亡国経済学の背景には、この清算主義の思想がべったりと貼りついていることに注意が必要だ。
清算主義を少し丁寧に定義しておこう。経済の成長や発展といったものは、資源をムダに利用しないことによってもたらされる。社会にムダな資源の利用があればそれを積極的に除去しなくてはいけない。ただしそれには政府の介入はかえって妨げになり、市場の淘汰の力で清算を行うべきである、というものだ。例えば、不況がどんなに深刻であっても政府は何もすべきではなく、そのまま放置して自然治癒を待つという立場である。失業保険も年金・医療保険などもこの清算主義の立場からは、ムダの典型として否定される。むしろ亡国経済学のように、厳しい環境になればなるほど、ムダが排除され、さらに高い経済成長を達成できると、清算主義者は考えている。
清算主義の理論的な評価は、ハーバード大学教授のJ.ブラットフォード・デ・ロングの論文「“清算”循環と大恐慌」(1991年)や、慶應義塾大学の竹森俊平教授の『経済論戦は甦る』(東洋経済新報社、2002年。改訂新版は日本経済新聞社、2007年)に詳しい。デ・ロングや竹森らによれば、この清算主義をもっとも明瞭に打ち出したのは、ジョセフ・シュンペーターである。シュンペーターは世界恐慌を経験した後の1941年に行われた講演会の席上で次のような発言を残している。
 「ところで、景気の衰退とは何でしょうか。それは、存続しえない、また、持ちこたえられない要素を排除することを意味しています。それは、多くのものを破壊しながら無情に進行する「春の大掃除」で、価格・信用の構造がなければ無限に存続しうるものです。しかし、そのような「春の大掃除」の後、私たちは、常に、新たな消費財の到来を見ます。一九三〇年代の間でさえ、私たちは、その徴候をいくつか見ました。例えば、誤って労働生産性と呼ばれたマン・アワーあたりの生産高は、技術的、組織的、商業的などの進歩の徴候ですが、それがかなりの上昇をみせています。したがって、後に社会全体に対して消費財の供給をもっと増やすことが可能であるという事実は、一九二〇年代における過去の上昇を基礎としているだけでなく、枯れ枝を落とす無慈悲な大掃除の結果です」(J・A・シュンペーター「われわれの時代の経済的解釈」『資本主義は生き延びるか』八木紀一郎訳、名古屋大学出版会、2001年、邦訳249-50頁)。
 シュンペーターにとっては「春の大掃除」=清算こそが資本主義経済に「創造的破壊」をもたらすものと考えられていた。例えば、いまの日本経済の潜在的な成長率が2%程度だとしよう。これは黙っていても毎年2%づつ経済の大きさが拡大するだけの潜在力がある、ということだ。だが、いまの日本経済はマイナス成長に直面してこの潜在的能力を十分に引き出していない。ふつうの経済学では、その原因は人々の投資や消費が冷え込んでいるためであると考える。しかし清算主義では、それはムダが存在するからだととらえる。このムダを排除すれば、「創造的破壊」が可能だ。「創造的破壊」が実現すれば、いままでの潜在成長力よりもさらに高い潜在成長力に日本経済は目覚めるだろう。つまり現状は、潜在成長率以下だが、経済をどんどん厳しい環境におけば、ムダが排除されて、その結果、二段跳びで従来よりもさらに大きな潜在性に目覚めるというわけだ。日本では「創造的破壊」を望ましいイノベーション(革新)と同義語としてもてはやすのが一般的だが、そのご本尊であるシュンペーター自身の背景にはこのような清算主義があることを忘れてはならない。
 さて清算主義では、さらにふたつの点が今日では重要である。ひとつは、政府の積極的な財政・金融政策などの介入は、ムダな企業や労働者の清算を遅らせることで、かえって厳しい不況をもたらす、ということである。例えば、ふつうの経済学ではデフレ不況が続いてしまうのは、財政政策や金融政策が積極的ではないためだ、と解釈するのが一般的である。だが清算主義では違う。財政政策や金融政策が積極的であるがゆえにデフレが持続するのである。だがそのような積極的な政策には限度がある。いずれ、このデフレで均衡した状態は、ムダの累積によって維持することができず、以前よりもさらに激しい「春の大掃除」がはじまり、不況の過程はより厳しいものになるだろう。
 さらに注意すべき第二点は、デフレ不況の解消のためにインフレの状態を目指そうとして、積極的な金融政策を援用すれば、実体経済の改善にはまったく効果がないにもかかわらず、ある日いきなりハイパーインフレーション(年率1000%の高インフレ)に見舞われるであろう、というものである。このときハイパーインフレーションの効果によりさらに経済は失速する、と清算主義者は考える。なお念のためにいっておくが、過去のハイパーインフレーションは積極的な金融政策の活用の結果もたらされたものではない。多くは戦争による混乱、もしくは政府が増税することがまったくできない状態で、政府紙幣を乱発するときに限られている。その乱発の規模は、いまの日本でいえば国民一人当たり100億円をくばればなんとか実現できるかもしれない。いいかえれば今の日本では起こりえない典型的な事例である。

現代日本の清算主義者 亡国経済学の中で最も恐ろしいのは、日本を東アジア共同体の中で解消する非現実的なものよりも、いま説明した「清算主義」の方である。なぜなら清算主義は、現実の経済政策の中にも支持者がいるし、また経済論壇でも有力だからだ。
 例えば、先ごろ日本銀行審議委員の任命を拒否された河野龍太郎BNPパリバ証券チーフエコノミストは、そのような清算主義の代表者であった。河野によれば、いまの日本は国債の低金利とデフレの継続による「デフレ均衡」の状態にある。日本経済がなぜそのような状態になったかといえば、日本が構造的なムダの問題に直面しているからだ。この「デフレ均衡」は、積極的な財政政策と金融政策によって維持されているが、それには限界がある。やがてムダの延命のつけが、財政危機の形となって日本経済を襲うだろう。この状態を解消するために、河野は増税による財政再建を強く打ち出す。他方で、より積極的な金融緩和は、通貨の信認を揺るがせると否定している。通貨の信認が揺らぐとは、簡単にいえばハイパーインフレ的な状況に陥るといいたいのかもしれない。もちろん不況の中の増税は、ふつうの経済学では、さらに消費と投資を冷え込ませ、経済不況を一段と深め、結果的には財政再建も遠のく。だが、清算主義的な発想は、そのようなふつうの経済学を否定している。
 さて清算主義者が、日本のムダの代表として挙げているのが、日本の雇用システムだ。簡単にいうと、日本の雇用システムは採用コストが割高であり、これがグローバル化競争の中で、日本経済を停滞させている最たるものだ、という解釈だ。そのため日本の清算主義者は、この採用コストを引き下げることを強く主張している。
採用コストとは、単純化すると雇用者報酬(雇用者数×時間×一人当たり賃金)を引き下げることである。雇用者数と労働時間を一定とすると、一人当たりの賃金を引き下げることに等しくなる。これは採用コストの圧縮だけではなく、もちろん企業全体の雇用コスト一般にも適用できる。
例えば、この種の採用コスト引き下げ論者の一人である経済評論家の池田信夫は、「年収1500万円の社員が2割賃金をカットしたら、一人の非正規社員が採用できる」と数年前から主張していたので、採用コストの引き下げをほぼ賃金引下げと等しいと考えているようだ。
しかも「まず雇用流動化で失業が増えることはない……だが、解雇が可能になれば社員を雇うハードルは一気に下がる。派遣社員の直接雇用も容易になり、正規と非正規の二極化も是正される。労働需要が増えるので、解雇された人も、次の職を得やすくなる」とも、池田は述べている。
この池田の清算主義がどのようなものか、数値例でさらに検討してみよう。いまの日本の雇用者報酬は280兆円ほどなので、雇用者報酬を、70兆から80兆引き下げることを池田は主張していることになる。ただ雇用者報酬は、池田らが想定している現金給与そのものではない。そこで『毎月勤労統計調査』から、おおよその現金給与額を計算してみる。常用雇用者数×(事業所規模が5人以上の)全産業の現金給与12か月分は、約150兆円ほどである。つまりイメージ的には、給料がほぼ半減することで、この種の採用コスト切り下げによって、グローバル化に勝つことができるほどのムダの排除になると、池田は考えるわけだ。しかし給料が半減して、はたして私たちの社会はより望ましい状態になったといえるのだろうか? むしろ社会的不安が加速化し、消費や投資が冷却することで、さらに経済は負のスパイラルに落ち込むだろう。厳しい不況における給与の劇的な引き下げはまた働く人たちの労働意欲も削ぐだろう。それがふつうの経済学の示唆するところだ。

最大の清算主義者である日本銀行
 日本自体を消滅させるほど、「日本人」を厳しい環境に置くことで頑張らせる、亡国論。その起源が、昭和研究会の参集した経済学者たちにあることはみた。その代表者である笠信太郎も三木清もともにマルクス主義の影響を色濃く受けていた。また尾崎秀実に至ってはコミンテルンのスパイであった。この三者だけでなく、日本亡国論や清算主義の基本は、デフレを継続させることが望ましいとするものだった。そのデフレ親和的な傾向は、現代も続いている。その代表はなんといっても日本銀行そのものであろう。日本は公式統計をみても、国内総生産(GDP)の物価であるGDPデフレーターでみると94年からすでに20年近くデフレが継続している。このときのデフレは経済規模の縮小が伴っているので、私たちの生活か苦しくなっていることに等しい。そのような国民を厳しい環境に置く状態がずっと継続している。
 このような長期のデフレはなぜ起きたのか? その答えはふつうの経済学では明白だ。物価とは、モノと貨幣との相対価値を示すものである。デフレは、モノに対して貨幣の価値が上昇しているからだ。なぜ貨幣の価値が上昇するのか。それは貨幣の希少価値が高いからだ。つまりいまの日本は20年近く貨幣が不足する状態にある。それは直観的にも、私たちの所得が全く伸びていないことにも表れている。お金が不足しているのだ。そして日本でお金を供給することができるのは、日本銀行だけである。
 また日本銀行はその設置法において、物価の安定を課せられている。だがこの20年近く、日本銀行が行ってきたのはデフレの継続である。これは日本銀行自身が、物価の安定をデフレでの安定と読み替えている証拠であろう。これをデフレ・ターゲットとよぶ人たちもいる。そしてデフレを継続することは、日本をきびしい経済環境におくことであり、それはまさに戦前からの清算主義を受け継ぐものであろう。
 このことは日本銀行に対する国際的評価としても定着している。例えば、速水優総裁の時期(1998年から2003年)の日本銀行のデフレ政策を、米国の著名経済学者アダム・ポーゼンは、中央銀行の使命である不況時の金融緩和を忘却し、「創造的破壊」にまい進していると批判した。
 最近の白川方明日本銀行総裁についても同様の指摘がされている。オレゴン大学準教授のテイム・デューイや『フィナンシャルタイムズ』の記者ロビン・ハーディングらは、今年の3月24日に米国で行った白川総裁の講演を「清算主義」だと批判した。 
白川総裁はその講演で、金融緩和を継続することが、収益性のない投資案件やムダな企業を延命させ、財政危機を継続させていると発言したのである。デューイらは正しくも、そのような清算主義的な発言は、実は日本銀行の政策の失敗から注意をそらすためのカモフラージュである、とも指摘している。
しかし本当に「政策の失敗」なのだろうか。白川氏の本音が、清算主義的なものにあるのだとすれば、デフレを意図的に継続させて、日本を亡国とすることこそ本旨ではないのか? いまや日本銀行の総裁はじめ幹部たち、そしてその支持者を含めて、改めて彼らが何者であるのかが、問われようとしている。

(『正論』2012年6月号所収)