佐々木敦の『未知との遭遇』(筑摩書房、2011年)は奇妙な本である。表面上の構成はこうだ。小説やマンガや映画や演劇、評論や思想などを適宜召還しながら、ある結論へと論を進めていく。そう書くと、よくあるカルチャー評論のようだし、実際そうであるともいえる。

インターネット普及後、急速に肥大した情報空間に直面したわれわれが、多様性が増えたのにもかかわらず、あるいは増えてしまったがゆえに覚えるようになった無力感閉塞感、もう少し開くと、世界の無限性を目の当たりにして、自分という存在の有限性を思い知らされ萎縮している状態がまず問題にされるのだが、議論は「運命」をどのように考えるかへと進み、「すべては決まっており、われわれはそれを受け容れなければならない」という決定論、「最強の運命論」を採ることを佐々木は提案するにいたる。「起きたことはすべていいこと」と考えるべきなのだと。

いつか窪塚洋介がいった「起こることはすべてギフト」と表面的には同じである。主張内容もじつのところほとんど同じといってよく、佐々木も「通俗的な人生論的響きに聞こえるかもしれません」と断りを添えているし、まえがきでは、これは「生き方」の本であり「自己啓発」かもしれないとさえ書いている。

だが申告どおりの自己啓発本なのかというと、やはり違う。ではこの本は何なのか。

自己啓発をメタ化(相対化)するための自己啓発本、ということになるのではないかと思う。

しかしなぜそんなものを書かねばならなかったのか。その答えも本の中にある。

80年代、90年代、00年代とディケイドで日本の思想を切ったとき、80年代は現状に対する否定批判が強かったのが、90年代になると受容的容認的に変わり、00年代には積極的な肯定になったと佐々木は分析する。これは前著『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年)を受けたものだ。

現状に対する「容認」と「積極的な肯定」とのあいだには「論理的な飛躍」があると佐々木はいう。「ポストモダン的な状況が進むと、ほとんど不可避的に、やがて「この世界」そして「この社会」の追認と肯定になる」。しかしこの飛躍はまずいのではないか、そこにこそわれわれを閉塞させている要因があるのではないか。佐々木の問題意識はこういうものだ。

佐々木がそのような「ゼロ年代の思想」として何を浮かべているか直には示されていないが、頻繁に名前のあがる東浩紀よりも、一度だけ名前が登場する宇野常寛のほうが文脈にはよく合っている。

宇野の『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)は、「大きな物語」の失効を前提に、ポストモダン化した状況を乗り越える処方箋を提出したものと整理できる。結論はこうだ。

「〔正しい価値も意味も与えてくれない〕世界に絶望する必要はない。これは同時に自由の拡大でもあるのだ。(…)私たちの生きるこの世界は、自由であり、可能性にあふれている」

具体的には「日常の輝きから取り出せる物語を大切にしましょうね」「友達は大事だよ」といっているに過ぎず、肩すかしだと以前批判的に書いたことがあるのだが(『大航海』71号)、新作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011年)でも、枠組みこそ若干アップデートされているものの(「グローバル資本主義/ネットワーク化」というのが持ち込まれた)、結論は現状の是認を前提とした「〈いま、ここ〉に潜り、世界を多重化すること」というもので格段の更新は見られない。

まあ、結論の是非はどうでもいいのだが、問題はその説教くささだ。「深く「潜る」ことで変えていくべきなのだ」とか自己啓発的にしか論を提示できないことが問題なのだ。

佐々木のメタ自己啓発は、このような自己啓発的現状肯定に対し楔を打つことが目的とされているといえるが、ところがあろうことか、佐々木と宇野の結論は一致してしまっているのである。プロセスの差こそが重要とはいえ、ポストモダンの果てで世界が宙吊りになった現在だろうと、平凡な日常に輝きや驚きを見つけ出すことが生に彩りや豊かさをもたらすからそうしましょうねといっている点において、両者にさしたる違いはない。

メタとベタが位相を越えて一致してしまう。これはもはやアポリアというべきではないだろうか?

佐々木はグラデーションをつけて区分していたが、80年代や90年代にしたって、思想は、「逃げろや逃げろ」(浅田彰)、「終わりなき日常を生きろ」(宮台真司)と命令調で「生き方」を差し出したのだし、そこが受けた。いや、明治時代に絶大な人気を誇った高山樗牛にしてからが、「美的生活」という「生き方」を打ち出したことで思想界最初のカリスマとなったのだった。日本において思想とは、ある意味ではずっとインテリ向け自己啓発に過ぎなかったのである。

とするなら問題は、こうパラフレーズされるべきだろう。近代から現代まで、戦後も戦前も、高度経済成長もバブルも長期不況も、モダンもポストモダンも、左も右も、現状否認も現状肯定も関係なく、なぜ日本において思想はいつも説教くさい自己啓発としてしかありえなかったのかと。

もっとも、「人間、百年やそこらじゃ大して変わらないのさ」とざっくりした回答を出せばそれで終わってしまう話ではあるし、べつに日本に限ったことというわけでもないのだろうけど。

(初出:『フリースタイル』18号)