今日、世界的に活躍する仏教僧の二大巨頭として、チベット仏教のダライ・ラマ十四世とベトナム仏教のティク・ナット・ハンが挙げられることはまず間違いない。

二○○七年のミャンマーにおける、軍事政権による僧侶のデモへの弾圧に対しても、ティク・ナット・ハンはダライ・ラマ十四世と共にいち早く連帯の声明を発表し、世界の仏教界のオピニオン・リーダーとしての役割を果たしている。

しかし、日本においては、ノーベル平和賞受賞者であるダライ・ラマ十四世に比べ、ティク・ナット・ハンの知名度は大きく低いのが現状である。

ティク・ナット・ハンとは何ものか

ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)は、一九ニ六年、ベトナム中部のフエ(順化)生まれの禅僧にして詩人、平和運動家である。十六歳のとき、臨済正宗柳館派でフエにあるトゥヒゥ(慈孝)寺で出家。若い頃より聡明であり、プリンストン大学やコロンビア大学でも学んだ。

一九五○年代、ベトナムのゴ・ディン・ジエムは不正選挙を利用してベトナム共和国を樹立し、初代大統領に就任。カトリック教徒のゴ・ディン・ジエムは、仏教徒を中心とした反政府運動を厳しく弾圧。これに対し、僧侶のティク・クアン・ドック(釈廣德)は抗議の焼身自殺を行なった。このティック・クアン・ドックの焼身を、ゴ・ディン・ジエムの弟の妻であるマダム・ヌーは「坊主のバーベキュー」と評した。このことは国内外の人々の大きな反感を買い、ついにゴ・ディン・ジエム政権は崩壊した。

ゴ・ディン・ジエム政権崩壊後、ティク・ナット・ハンはアメリカからベトナムに帰国。ベトナムで初めて西欧式に組織された仏教大学である、ヴァン・ハン(万行)仏教大学の設立に参画し、社会学部長を務めた。また、社会福祉青年学校(SYSS)を創設し、その校長も兼ねた。社会福祉青年学校は千人以上の規模で、ベトナム戦争によって爆撃を受けた村を再建し、学校や病院を建設、戦災家族の援助など、粘り強い活動を続けた。

一九六六年、ティク・ナット・ハンは「平和のための提案(A Proposal for Peace)」を携え渡米。コーネル大学で「ベトナムの仏教復興運動」について講義。ロバート・マクナマラ長官、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師などと会見、ベトナム戦争の終結を主張。ティク・ナット・ハンの勇気ある行動に感銘を受けたキング牧師は、彼をノーベル平和賞に推薦した。

その後、ティク・ナット・ハンは米国友和会(FOR)とベトナム良心国際委員会(ICCV)の斡旋で欧米を訪問。ベトナムの平和を訴える講演を続ける。だが、仏教徒による中立政権の樹立を主張するティク・ナット・ハンは、帰国すれば投獄の危険にさらされることになり、フランスへ亡命することとなる。七○年代には、ベトナム戦争終結のためのパリ平和会議に、ベトナム仏教徒主席代表として参加。現在はフランスにある仏教共同体、プラム・ヴィレッジ(すもも村)を拠点として、瞑想合宿の指導や著述、世界中の難民支援の活動に従事している。ティク・ナット・ハン及びプラム・ヴィレッジの最新情報については、日本語ホームページ( http://www.interbejp.org/ )で確認することができる。

民主化途上のベトナム社会

長年にわたり、ティク・ナット・ハンは、祖国ベトナムへの帰国の希望を持っていた。だが、残念なことにその願いがかなうことはなかった。しかし、ついに二○○五年、ティク・ナット・ハンの帰国の希望が受け入れられ、プラム・ヴィレッジのメンバーと共にベトナムへの一時帰国が許可された。二○○七年には二度目の帰国も果たしている。

だが、このことをもって、ベトナムで宗教活動の自由が認められたと考えるのは、まだまだ早計なようである。この、ベトナム政府のティク・ナット・ハンへの対応の柔軟化の背景には、当時WTOへの加盟を目指していたベトナム政府の、世界に対する民主化のアピールという側面もあったようなのである。

そのような憶測を裏打ちするかのように、二○○七年に無事WTOへの加盟を果たしたベトナム政府は、ティク・ナット・ハンの率いるベトナム国内の仏教団体であるユニファイド・ブッディスト・チャーチへの風当たりを強めるようになっていった。

かかる情勢にも関わらず、ティク・ナット・ハンはベトナム政府に対し、宗教活動への自由を強く求め続けた。そうした緊張関係が続いた二○○九年、六月と九月の二回にわたり、ティク・ナット・ハンの教えを実践しているベトナム国内の寺院であるバット・ナー僧院が襲撃されるという事件が起こった。棒やハンマーで武装した百五十人もの集団が、僧と尼僧を僧院から叩きだし、僧院の建物を木っ端微塵に破壊しつくした。二○十一年の現在もなお、ベトナムでは自由にティク・ナット・ハンの教えを実践することはできていない。中国政府によるチベット仏教の弾圧は日本でも有名だが、事実上共産党一党独裁のベトナムでも、同じように仏教に対する弾圧がおこなわれているのである。

ティク・ナット・ハンの仏教活動の歴史的意義

これまで日本においては、こうしたティク・ナット・ハンの活動は、ベトナム反戦の平和運動家としての文脈で理解されることが多かった。確かに、ティク・ナット・ハンは長年プラム・ヴィレッジにおいて、ベトナム難民の人々と戦争中にベトナムの人々を殺害したことのあるアメリカ兵との間の加害者・被害者間の対話を模索する活動などに力を注いできた。

また、仏教に関心を持つ日本人の多くにとっては、禅といえば曹洞宗か臨済宗に他ならず、ベトナムの臨済正宗といわれても、ピンとこない人が多数であったとしても無理はなかった。そのため、今を遡ること十六年前の一九九五年に、ティク・ナット・ハンが来日したときも、日本のマスメディアに大きく注目されることはなかったのである。

そんなティク・ナット・ハンの著作が、今年になって再刊のものも含め、突然八冊も刊行された。このことの背景には、ここ数年アルボムッレ・スマナサーラや小池龍之介らの書籍が数十万部を超えるベストセラーとなり、仏教における最も重要な教えといっても過言ではない「気づきの瞑想」が世間に注目されるようになってきたということがある。

ティク・ナット・ハンの説く仏教の教えの核心には、今この瞬間への気づき(マインドフルネス)を重視するということがある。この、気づき(パーリ語ではサティ)は、タイやミャンマーなどのテーラワーダ仏教(南伝仏教)圏では、大変重視されている教えである。しかし、従来日本仏教界においては、この気づき(サティ)に対する理解は乏しく、長年研究者の間でも正念(正しい気づき)を「正しい記憶」と誤って解釈してきたほどであった。

だが、九○年代後半からインターネットを通じて海外の仏教動向に関する情報が増えてきたこともあり、以前に比べ日本でも「気づきの瞑想」を実践するものが増えてきた。そのため、今日ではこの誤解は払拭されつつあるが、テーラワーダ仏教を小乗仏教と蔑称で呼び、その教えを軽視してきた日本仏教界の損失は計り知れないものがあるだろう。

そうしたテーラワーダ仏教への深い理解と同時に、大乗仏教への深い理解にも支えられているのがティク・ナット・ハンの仏教である。上述したようにベトナム臨済宗出身の僧侶であるティク・ナット・ハンは、当然のことながら禅に精通していることに加え、法華経、般若心経、維摩経といった代表的な大乗経典の注釈書を執筆するなど、大乗仏教全体への深い理解をもって知られている。

こうして見てみると、ティク・ナット・ハンの教えは大乗仏教とテーラワーダ仏教の交わるところ、中継点であるかのように思われる。二十一世紀の世界仏教をルネッサンス(再生)させる視点は、意外なことにベトナム戦争という厳しい法難を潜り抜けた、ベトナム仏教のなかにあるのではないだろうか。

(初出:青林堂『ジャパニズム 02』掲載原稿を転載。ご了承を頂いた関係者様に御礼申し上げます)