ゲバラを超える日本人の英雄

一頃より少なくはなったが、今でも渋谷や原宿などを歩いていると、チェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツを着ている若者の姿を目にすることがある。ゲバラは確かにキューバ革命を成し遂げた英雄であるし、ボリビアでの最期も劇的なものであったため、今でも若者にとって「青春のシンボル」とでもいうべき存在となっているのだろう。だが、日本の若者たちが実は同胞たる日本人のなかにゲバラをも超えうるヒーローがいると知ったら、驚嘆するのではないだろうか。

その英雄の名は佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)(本名:佐々井実)という。一九三五年、岡山県阿哲郡菅生村(現在の新見市)生まれ。戦前のことであったが、幼少のころより性的好奇心が強く、小学五年生にして童貞を失うほどの豪傑であったという。

そんな実少年だったが、十四歳のある日、父親の炭焼き仕事の手伝いで山に入った際、足を滑らせ崖から転落し、負傷をしてしまう。そして、その時の負傷がもとで高熱を発し、一時は重篤な状態にまでなる。だが、周囲のすすめにより蛇の心臓を毎日飲み続けることによって、一命を取り留めることができた。

だが、なんとか熱は下がったものの、その代償として気力を失ってしまい、その後なんとか高校へ進学はしたものの、無気力状態は回復せず、やがて高校を退学することとなってしまう。

高校退学後は鬱々とした日々をすごし、家に引きこもりがちだった実少年だったが、あるとき奮起し、十六歳の頃、東京へ上京。上京後は、精神を鍛錬するための塾である東京正生院に入塾した。ほどなくして綿屋に就職し、額に汗して働くも、女遊びが原因で職を辞すこととなる。

失意の想いを抱えて帰京した実少年は、郷里で商売を始めたものの、うまくいかなかった。人生に行き詰まりを感じた実少年は、北海道に旅立ち、ついに青函連絡船から身を投げて自殺を試みた。しかし、そのときの自殺は幸運にも船員に止められ、未遂に終わる。

生きることも、死ぬこともままならぬ実少年も、八方塞の人生を送るうちに二十三歳となっていた。一九五七年のことである。もはや、少年ではなく立派な青年の年である。この頃になると、さすがに気力、体力ともに少しずつ回復してきており、一念発起して鳥取県立米子東高等学校に入学するも、やはり学業に集中することはできず、結局中退してしまう。

二十五歳になった実は、自分には学問は向いていないのだから、いっそ僧侶になってはどうかと思い立ち、京都の比叡山に赴いた。だが、そこでも学歴不足を理由に出家は断られる。日蓮宗、曹洞宗の各宗派に頼み込むも、結果は同じであった。「どこへ行っても、学歴か…。このままでは、俺の人生は一生浮かばれない」と思った実は、悲嘆のあまり、大菩薩峠で二度目の自殺を試みる。しかし、やはりここでも死ぬに死にきれなかった。結局、山を降り、山梨県甲州市の大善寺の井上秀祐師に拾われ、修行をすることとなった。

僧侶、佐々井秀嶺の誕生

やがて月日は流れ、一九六○年、井上秀祐師の薦めで高尾山薬王院にうつり、山元秀順貫首より得度を受けた。このとき、佐々井実青年は初めて正式な僧侶となり、佐々井秀嶺となったのである。師僧山元秀順は、戦中戦争反対の立場を貫き、二百五十日もの長きにわたり拘留された経験を持つ、真の仏教者であった。本来、仏教は不殺生の教えである。しかしながら、残念なことに戦中は多くの高僧が戦争賛成の立場をとっていた。そのような時代状況のなかにおいても、山本は自分の信念を貫いたわけである。

尊敬できる師にめぐり会え、念願の僧侶にもなれた秀嶺であったが、やがて薬王院で他の僧侶たちとの人間関係が悪化し、寺にいづらくなってきたため、鹿児島に移り、日蓮宗教王寺で修行をした。

修行に励むうちにより深く仏教の教理を理解したいと思うようになった秀嶺は、東京に戻り、大正大学の聴講生となった。一九六二年のことである。だが、ここでもまた秀嶺は大学の女学生と恋に落ち、その悩みから岐阜県乗鞍山頂にて生涯三度目の自殺を試みることとなる。三度目の自殺もまた未遂に終わったが、今回の自殺は前回までとは異なり、その死の瞬間、大自然との入我我入を経験し、その覚醒状態からくる嘉悦感から、自殺を思いとどまることとなった。

自殺を思いとどまった秀嶺は、東京に戻り、浪曲師や易者としても活躍するなど、これまでになく多忙な日々を過ごした。収入も増え、恋愛関係など私生活も充実していた秀嶺であったが、一九六五年、師匠の山元貫首にタイでの仏教留学を勧められると、思い切ってタイに渡ることを決意した。

インド仏教徒一億人の頂点へ

勇んで乗り込んだタイ修行であったが、秀嶺はタイ仏教には馴染むことはできなかった。そこで、彼はタイでの修行に見切りをつけ、インドを目指すこととした。時に一九六七年、秀嶺はインドに渡る。ビハール州ラージギルの日本山妙法寺では、建設中の世界平和塔建立の基礎工事に携わり、優秀な土木工事監督者として現地の人々にも慕われた。だが、やがて日本山妙法寺の代表であった藤井日達上人との人間関係が悪化し、日本山妙法寺を離れることになってしまう。

いよいよ日本山妙法寺を離れようとしていたある日、秀嶺の夢の中に古代インドの高僧ナーガールジュナが表れ「南天竜宮城へ行き、南天鉄塔を見つけ出せ」と告げた。南天鉄塔とは、真言密教の根本経典が所蔵されているといわれる南インドのどこかに存在する鉄塔のことである。夢告から南天鉄塔はインドのナグプールにあるに違いないとあたりをつけた秀嶺は、一躍ナグプールへ向かい、その地にインド山妙法寺を建立した。

ナグプールで必死に仏教活動をおこなった秀嶺は、ブッダ生誕の地であるインドで仏教がほとんど滅んでしまっていることを知る。だが、その仏教はインドのカースト制度の最底辺にあるダリット(不可触民)の人々の手によって再興されつつあった。

なかでも、ダリット出身ながらインド憲法の草案作成者とまでなったビームラーオ・アンベードカルの存在は、インド仏教徒にとって大きなものであった。アンベードカルはその死の二ヶ月前、ダリットへの差別を肯定するヒンドゥー教から仏教への改宗を、五十万人のダリットとともにおこなったからである。

秀嶺のダリットへの慈しみは次第に周囲に知れ渡り、多くのダリットが秀嶺の周囲に集い、ヒンドゥー教から仏教へと改宗していった。その影響力の大きさから、秀嶺はやがてカースト制度を破壊するものとしてヒンドゥー教徒から敵視されるようになる。秀嶺に対する攻撃は日増しに高まり、一九八七年には不法滞在の罪で逮捕されるものの、佐々井擁護の市民運動が起こり、ついにインド国籍を取得。ラジヴ・ガンディー首相より、インド名アーリア・ナーガールジュナを授与された。

しかし、国籍取得後も秀嶺に対する迫害は続き、これまでに二度の毒殺未遂を含む、幾度もの暗殺の危機に見舞われている。それでも差別解放のために驀進する秀嶺は二○○三年には、仏教徒代表として、インド政府少数者委員会(マイノリティ・コミッション)の委員に就任。少数者委員会とは、ヒンドゥー教が圧倒的多数なインドにおいて、キリスト教、イスラム教などの少数派の宗教の意見を代弁する委員会のことである。その仏教者の代表として、既にインド国籍を取得しているとはいえ、外国人出身の秀嶺が選ばれたのである。いかに、佐々井秀嶺という存在がインド社会のなかで認められているかということの証左であろう。

今では毎年、十月に佐々井を導師としたヒンドゥー教から仏教への改宗式が盛大に開かれ、時には百万人もの人々が参加するようになった。佐々井の長年に渡るこのような献身的な努力の結果、現在インドの仏教徒は一億人とまでいわれるほどに回復した。これだけの偉業を成し遂げたにも関わらず、佐々井秀嶺の名は日本社会のなかではそれほど大きな知名度を得ていないように思われる。願わくば、ゲバラのTシャツを身に纏うのと同様に、佐々井秀嶺の姿がプリントされたTシャツを着た若者たちが街を闊歩する日が訪れてほしいものである。

(初出:青林堂『ジャパニズム 03』掲載原稿を転載。ご了承を頂いた関係者様に御礼申し上げます)