ある講演会でアーノルド・J・トインビーの言葉が話題にでた。

 

12,3歳くらいまでに自らの神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる。
民族を滅亡させるには軍隊は必要ない。
ただ神話を教えなければ、それだけで必ず滅ぶのだ。

 

講師は引き続き「古事記」をテーマに、「語り継ぐ」ことの大切さや、大いなる物語の一つである「日本神話」について語り始めた。
思春期を迎える前、一人の人間の社会理解=世界観ができあがってしまう前に、民族の神話を知る事がいかに大切か、という話でもある。
神話を喪失した民族は必ず滅びる、という内容は、センセーショナルに聞こえるが、これは逆説である。

神話とは、民族や一つの文明にとっての根源とつながる物語であり、過去と未来を自らと結びつける仕組みでもある。
「永遠の過去」と「永遠の未来」の中間地点に、自分がいると言うことを知るための物語である。
自らの父、父の父、自らの母、母の母は、どう生きてきたのかという物語であり、そ
して、自分の子供、自分の孫へどうつないでいくのか、という話である。

結局のところ「自分は今をどのように生きるのか」というアイデンティティの話でもある。
神話を失うとは、アイデンティティを喪失して民族といえるのか?という事である。

そういう意味で、神話とは過去と未来をつなぐ、壮大なスケールの「大きな物語」である。
世界がどのように生まれ、どのように存在しているのか、我々はどこに行こうとしてい
るのか。

 

ジャン・フランソワ・リオタールが言うところの、現代社会における特徴が「大きな物語」の喪失と、ポストモダンにおける複数の「小さい物語」への分割であるということに絡む内容とも重なっている。
失われたのは「科学」だけではない。
大きな物語が存在せず、共通の基盤をなくした現代社会の問題点を、回復することは可能なのだろうか。

我々の時代にあっては、個人的で身近で細分化された生活の物語「小さな物語」が存在するだけで、共通の基盤、世界観を持ち合わせなくなっている。
ところで、リオタールらが言うように、大きな物語は本当に喪失したのだろうか。
そして二度と復活できないのだろうか。

 

「バチカンの聖と俗―日本大使の一四〇〇日」(上野景文著、2011/8/1、かまくら春秋社)というなかなかおもしろい本がある。

上野氏は、文明論的視点を持ってバチカンを観察し、今後バチカンはどこへ進もうとしているのかを解説している。
現役の外交官が、バチカンの内部まで入り込んで分析しているという点で、文明論だけでなく外交の専門家による文化覇権論(ソフトパワー)でもある。
学問の府から観念的に社会をとらえるのではなく、現実の宗教と国家的な交流という現実からとらえている上野氏の言葉には、強いリアリティがある。

著者によると、ヨーロッパと日本を除く国々において宗教は復権し、広がりと力を拡大しているとのこと。
一番わかりやすいのはイスラムだろう。アフリカや中東においては、国家統合の要としてイスラム教が大きな役割を果たしているのだ。

そのような中にあって、バチカンは国際的プレーヤーとして極めて大きな存在感を発
揮し、また今も拡大し続けている、というのが著者の分析である。
だからといって、バチカンが軍隊や経済活動を行うわけではないので、バチカンの持つ力はソフト・パワーのみである。
しかも、それは韓国のような、映像コンテンツやポップカルチャーといったソフト・パワーではなく、もっぱら、道徳的、倫理的活動に根ざした「救済」といった分野に限定されている。モラル・パワーの顕現とでも言えようか。

 

本書の詳細は別に譲るとして、バチカンが前法王のヨハネ・パウロ2世の頃から、熱心な布教活動と同時に、宗教の枠組みを超えた普遍的な倫理的活動により、大きく変貌を遂げ、力を拡大したことを理解しておく必要があるだろう。

ヨハネ・パウロ2世は数々の平和行動の実践の結果、東欧の民主化運動を精神的に支えた。
また、イスラム教だけでなく、諸宗教や文化間の対話の呼びかけとその実行、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示など、宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与えたのである。
その結果、バチカンのネットワークは世界へと張り巡らされることとなり、バチカンで発表されることの重みは、国連並みとまで言われるようになっている。

つまり、カトリック及び聖書という大きな物語は、しっかりと復権を果たしつつある。
道徳的、対話、生命倫理などに看板を書き換えて、しっかりと地下に根を張りつつあると言えるだろう。

 

翻って、日本はどうだろうか。
日本人にとっての「大きな物語」、神話の回復は果たしてなされていくのだろうか。