久住昌之原作の傑作漫画、『孤独のグルメ』(扶桑社)を読んだことがある方は多いと思う。最近では松重豊主演でドラマ(テレビ東京)となり、シーズン1と2を消化したところだ。ドラマも中々良くできている。

『花のズボラ飯』(秋田書店)と併せて、最近久住昌之原作のブレイクが著しい。私は『孤独のグルメ』には数年前に出会ったが、未だに事ある毎に読み返すほど好きな作品である。個人事業で輸入雑貨商を営む男・井之頭五郎が、一人で大飯を食って店を出ていくという1話完結の内容。その高い漫画的完成度の割に、続編が出ることもなく、『孤独のグルメ』シリーズはハードカバー1冊のみで完結している。このコンパクトさも本作が永く親しまれている理由かもしれない。

・「孤独=悪」の図式とBBQ
つとに最近、「孤独」が悪いかのような風潮が出回っている。一人で飯を食うことを個食ならぬ「孤食」と言ってネガティブなイメージを付加させようとしている。「ぼっち飯(ぼっち)」「便所飯」という単語も流通するようになった。漫画『僕の小規模な失敗』(青林工藝舎)では作者の福満しげゆきが大学生時代に経験した便所飯の描写が克明に描かれているので読んでみると良い。

一方、「大人数で飯を食う事」「大人数で酒を飲み交わすこと」が善とされ、その最たる象徴がここ数年のBBQの流布であろう。あたり前のことだが、BBQとはバーベキューの略だ。肉に鉄串を突き刺して炭火で焼く。見飽きたアングロ・サクソンのこの風習が、広い庭園が存在しない日本の狭小な住宅環境でここ十数年の内に急激に普及したのは、輸入肉が安く手に入るようになったとか、国産炭火の性能が向上したとかそういう事ではなく、単純に「俺は(私は)決して一人ではないんだ」というアリバイの為に開発された、「孤独でいることは悪だ」という強迫観念を打ち消す集団心理行動のように思える。

・「孤独死」の嘘と欺瞞
「孤独」という言葉に負のイメージが付きまとうようになったのは、ここ数年の「孤独死」という単語の誕生と関係している。老朽化した公団住宅に、誰知られることはなく高齢者が臨終を迎える。これをNHKなどが大々的に社会問題であるとして取り上げ、「孤独」という単語と「死」が結びついた。極めつけは「無縁社会」などと四文字熟語も創りだす始末である。私は「孤独」は「孤高」と同義と思っているが、ここに「死」や「無」という一文字が付加されるようになってから、「孤独」にはひときわマイナスのオーラがつきまとうようになった。人々は必死に、自分は孤独ではないことのアリバイ証明をしようとする。その最たるものがBBQの隆盛であろう。

『孤独のグルメ』は、井之頭五郎という中年男が、場末の定食屋や路地裏の小料理店で誰とも交わらず黙々と飯を食う事に終止する作品だ。五郎が一滴の酒も飲まない、下戸という設定がこの作品の白眉なところである。一人の酒は哀愁と侘しさを感じさせる。少なくとも漫画の中で男が一人で酒を呑む描写は、寂しさと逃避を彷彿とさせる。そうしないために、あえて『孤独のグルメ』は五郎から酒を遠ざけている。五郎は決して寂しいわけでもなく、世の中の何かから逃避しているわけでもない、という強い漫画的演出に貫かれている。彼は劇中で過去に女優との交際関係が描かれ、経済的にも決して貧しくはなく、営業的なことをしている設定からも社交性もきちんとある。何かが辛くて一人で飯を食っているわけではない。五郎は「孤食」に追い込まれているのではなく「孤食」を自ら選択しているのだ。『孤独のグルメ』で描かれる孤食の風景は、決して侘しいものではなく、寧ろ人生の余裕と食への喜びに満ちている。

「孤独死」という言葉にはそもそも矛盾がある。高齢者が公団住宅の中で誰知らず死んでも、家族や孫に恵まれた老人が病院のベッドの上で臨終を迎えても、それら両者は同様に孤独である、という点を無視している。つまり死とは常に一人で迎えるものだという事実を無視している。沢山のチューブと点滴につながれ、看護師と親族に看取られながら死を迎えるベッドの上でも、結局のところ死ぬ瞬間は一人だ。友人や知人に恵まれた若者でも、ある時突然、脳出血や心不全で一人死ぬ場合もある。人は常に臨終において孤独なのだという事実を「孤独死」という言葉は誤魔化している。

このように、本来全員「孤独死」であるはずなのに、なぜか「孤独死」という単語には「一人で生活していた事」のみが不幸の主因として強調される、というニュアンスを含んでいる。要は関係性の希薄を不幸だ、問題だといっているのである。「死」が問題なのではなく、「孤独」こそが問題なのだといっているのである。そこには「孤独死」した老人たちは、実は生前幸せで充実した人生だったのではないか?という想像力はない。「孤独死」を迎えた老人の何割かは自らの「孤独」を問題にしなかった人々もいて、五郎のように「孤食」のグルメを年金で楽しんだ人々もいたのではないか。そういう視点が全く抜け落ちている。とにかく「一人で居ること」こそ最大の悪だといっているのである。実に滑稽な問題提起だ。

・一人でトイレにもいけない
『孤独のグルメ』の五郎は、そういった「孤独」への定説を小気味良く覆してくれる。ともすれば「一人で居ることは悪だ」とされがちな風潮の中において、寂しさのかけらもない「孤食」を貫く五郎のグルメ譚は、「一人で飯を食ったり飲んだりすること」が白眼視されがちな同調社会の中にあって、一縷の希望といっても差し支えないだろう。

私は大学生の時、友達がいなかったので必然的に一人で飯を食うしか無かった。リア充どもでごった返す同じ大学内の他学部の食堂の中で、一人もぐもぐと飯を食うのを誰か知っている人間に見られやしまいかと気恥ずかしさを感じながら生活していた。誰かと一緒に居ないと「ぼっち」だと言われる。そういうレッテルを貼られることが何よりの恥辱だと考えていた。「ぼっち」と名指しされると、何か社会的な生命を失うのではないか、という得も言えぬ圧迫を感じていた。要するに「ぼっち」は、いつの間にか「非国民」と同等の負のオーラを放つ単語になった。

しかし青春をとうに過ぎたいま、私は一人で飯を食ったり飲んだりすることこそ実は最高の至福なのだとだいぶ前に気がついた。寿司も居酒屋も焼肉も映画もショッピングもドライブも時としてカラオケやラブホテルへの宿泊も、特段約束やデートがなければ常に一人で済ませている。自ら進んでそうしているのだ。一人で居ることが何よりも好きだ。「孤独」は「孤高」と同義だと書いたが、それと同時に何者からも自由だからである。「孤食」を楽しむことが出来る人間が多くなればなるほど、「孤独は悪である」ことを煽るメディアの影響力の低下と、それに同調しなければ不安になる哀れな患者の数も減少することに寄与するだろう。カップルや夫婦で過ごすことの重要性や喜びを描いたドラマや音楽は多いが、一人孤独にいる事を賛美するカルチャーは希少である。あったとしてもそれは「滑稽」といった取り上げ方であって、自虐的笑いに終始している。決して正面から賛美してはいない。既存の大手メディアが、一貫して「一人でいることは悪だ、孤独はマイナスである」という有形無形のメッセージを電波に乗せて送り続けているからに他ならない。可哀想に、そういった世の同調的雰囲気に敏感な子供達が無意識下で影響を受け、昨今の小学生などは一人でトイレに行くことも躊躇し、最悪膀胱炎になる児童が続出しているという報道もあった。トイレすら一人でいけぬ世の中とは、ジョージ・オーウェルの『1984』に勝るとも劣らない暗黒社会である。

・「ぼっち」と自由-「シェア」というまやかし-
私は経済の専門家ではないのでわからないが、「孤独」は個人消費をも増大させるのではないか、と勝手に思っている。言うまでもないことだが、「ぼっち飯」に割り勘という概念は存在しない。小さいパイを誰かとシェアして、せせこましく脳内電卓で一人あたり○○円の支払い、と計算する必要もない。昨今「○○をシェアする」という言葉もよく聞くようになったが、これも「孤独」とは対極にある価値観だ。シェアハウスというのも流行っていると聞く。大都市部の比較的豪華な一戸建や広めのマンションを大人数でシェアする、というと聞こえは良いが、何のことはない賃貸住宅の割り勘である。これが何か「格好の良い若者の新生活形態」というニュアンスで取り上げられるのも腑に落ちない。確かに一人あたりの賃料は減少するが、常に赤の他人が同室やドア一枚の隣室に存在すると考えると気が変になりそうである。こういった住宅形式を選ぶ人々は、単に経済的に貧困なだけではなくて「一人でいると寂しいから」という理由の者も多いとの事だが、その「一人は寂しい」という感情は内心からふつふつと湧き上がる純然たる本能ではなく、単に既成の大手メディアによる「孤独は悪」キャンペーンに洗脳された結果なのではないかと危惧したくなる。安い賃料と刹那的な孤独感からの解放と引換に、彼らはなにか重大なものを失っている。それは自由だ。

「孤独(ぼっち)」を愛すること。「孤食(ぼっち飯)」を楽しむこと。多分それは、ムラ的なこの国の何かに苦しめられている人々の希望に繋がっていくと思う。「ムラ的な何か」の中には、村落共同体とか嫁姑問題とかスクールカーストとかが含まれてはいるが、本質的には違う。この国のムラ的な何か、の最大のものこそこの国のメディアだ。「孤独」を悪、と蔑んだメディアは、いずれ近いうち、孤独を愛する者の自由によって討ち滅ぼされるであろう。