ここ数年のネット世論の傾向というものを総覧すると、「嫌韓」が踏み絵に使われている感がある。つまり、大雑把に言えば「韓国(朝鮮)が好きか嫌いか」を軸として左と右が分類されている。韓国に融和的なのが左、批判的かつ嫌悪を示すものが右、という具合である。

この中で殊更ネット上で積極的に韓国に対しての嫌悪や敵愾心を示すものを或いは「ネット右翼」と呼んだりする。但しこの場合「ネット右翼」はそれを否定的に扱う文脈の中で登場し、一方肯定的な文脈の中では「ネット右翼と呼ぶな、保守と呼べ」という塩梅になる。事情を知らない人間には誠にわかりにくいが、乱暴に言うと「左から観た嫌韓」が「ネット右翼」であり、「右から観た嫌韓」が「保守」という倒錯した状況に陥っている。


さらに事態を複雑にしているのは、「右から観た嫌韓」の当事者たちによると、その言動が穏便なものこそが「保守」であり、下品で乱暴なものが「ネット右翼」である、というここで更に二分化が進んでいる。つまり「ネット右翼」を空疎なレッテル貼りだとしながらも、他方では「ネット右翼」の存在を是認しており、その代表格が「在特会」(在日特権を許さない市民の会)だというのである。「我々は在特会と一緒ではない。在特会のようなネット右翼と我々保守を一緒くたにするな」というのが、概ね「保守」を自認する人たちの多数派を占めている。私の周りの意見もだいたいこの様なニュアンスのものが圧倒的である。しかし、「在特会」と「保守」を区別するものが思想ではなくその言動の濃淡である、という分類方法はその文脈を共有する「保守」の側の皮膚感覚に依拠しており、つまりよく事情を知らないものが見ればそれらは「嫌韓」という共通項が存在するので区別することが出来ず、だから例えば有田芳生や香山リカやその一派などからすると「保守」もひっくるめて「ネット右翼」と括ってしまうのである。
ここで「保守」側は、言動の濃淡を以って彼らへの反論とする(つまり我々は上品なので在特会とは違うのだ―云々)を常に言いがちであるが、そもそも彼らに「嫌韓」の濃淡を見極める審美眼は無く、彼らが問題としているのは言動の濃淡ではなく「嫌韓」そのものなので、いくらその濃淡で自己正当化を図っても「ネット右翼」のレッテルは止むことはない。「保守」側は、抗弁の仕方を根本的に間違っているのである。

この問題に関するより深い考察は、私がさる426日に刊行した『ネット右翼の逆襲 嫌韓思想と新保守論』(総和社)により詳しいが、これは読者の方に是非是非購読していただくとして(笑)、そもそもネット世論に蔓延(はびこ)る「嫌韓の踏み絵」で左右を分ける最初の分類方法が異常だ、ということを指摘せねばならない。


「嫌韓」を踏み絵にして左右をあぶり出す、という手法を好んで用いる人々の多くは(それは私の経験上「保守」を自称する人々に多い)、例えばある人物が「韓流ドラマが好きだ」と言っただけで「ア、コイツハ、サヨクダ」と分類する。その他にどんなに的確な論評をしていようと、その一言だけで「コイツハ、リベラルダ」などという分類に進む。例えば私が韓国を旅行して「韓国人は皆親切だった」という当たり前の旅行の感想(事実そうであったからに過ぎない)を述べただけで韓国に対し「融和的」であると看做し「コイツハ保守デハナイ」という分類に進むのである。

繰り返すように、なぜこういう分類が存在しているのかといえば、それは取りも直さず「嫌韓」が左右を別ける「踏み絵」として所謂「保守」の側に充分機能しているからに他ならないからだ。「嫌韓」の有無こそ、左右を分類する最も簡単で即効性のある正しく「踏み絵」として存在していることを否定できる論者はどれだけ居るだろうか。

しかし、「嫌韓」を踏み絵として使っている人々は恐らく「嫌韓」の歴史的文脈を全く理解していないように思える。換言すればほとんど無知に近い。何故なら、そも戦後において「嫌韓」をしきりに唱えていたのは左翼・革新勢力の側であり、右派・保守勢力は一貫して「親韓」の色彩を帯びていたという歴史の事実を踏まえていないからである。このあたりの事情は私の新刊『ネット右翼の逆襲 嫌韓思想と新保守論』(総和社)に詳し(以下略…)であるが、冷戦下において我が国の革新勢力は朴正煕の韓国軍事政権を「米帝の手先」「独占資本主義の手駒」として自民党と一緒くたに叩き、一方我が国の右派・保守勢力は「反共の同胞」或いは「商業上の思惑の一致」でもって韓国礼賛を続けていたのである。元祖「嫌韓」こそが当時の共産党(野坂参三等)であり、一方「親韓」の思想的巨人こそが当時の産経新聞であった。


ともあれ冷戦崩壊後、ソビエトという共通の敵を失った我が国の思想界は、「嫌韓」を基軸とした左右のパラダイムシフトが起こった。そのパラダイムシフトの歴史的文脈を知らないものが、「嫌韓」を左右を別ける踏み絵として使用するのは大いに滑稽である。なにしろ、「嫌韓=保守(右)」という現在のネット世論の図式は、冷戦崩壊以前は全く180度のあべこべになっていたからである。

韓国を好きか嫌いか、で左右を分類するという現在の粗雑なイデオロギー判定方法は歴史的に見て実に滑稽である。そしてそういった「踏み絵」をしなければ敵か味方かを判定できないという事自体、自らの思想性の脆弱さを証明しているといえよう。本当に思想的に磐石なるものが確立しているのであれば、わざわざ踏み絵を行う必要はない。自らの存在がぐらついているからこそ、そしてそれを無意識下にでも自覚しているからこそ、他者に踏み絵を強制するのである。そのような傾向が、今のネット世論にはある。それを私は非常に危惧している。

私は、当世風のイデオロギーの左右の判定を、「韓国(朝鮮)」に依拠しているというこの現状が非常に貧相に思える。GDP世界第三位の大国である我が国が、何故に小国である韓国に対する好感の有る無しで左右に分けられなければならないのだろうか。なぜ韓国に「頼って」思想の左右を分類されなければならないのか。不愉快ですらある。「嫌韓」を「踏み絵」として使っているような人々は、韓国を一等蔑視しているように思えて、実際は韓国を想像上の大国として過大評価しているフシがある。韓国には我が国のイデオロギーの左右を判定するような国力は存在しない。それは各種の経済統計が明らかにしていよう(私は経済に明るくないので、具体例証は他の先生を参照されたい)。「嫌韓」を「踏み絵」に使うものこそ、日本を軽んじ、朝鮮に事大する誇大妄想狂の一種なのではないかと思うほどである。「保守」よ、韓国に拘泥するなかれ。

『ネット右翼の逆襲 嫌韓思想と新保守論』(総和社)