経済学者の田中秀臣氏が2010年刊の『AKB48の経済学』から約2年、再びAKB48について論じた。

読者の中には「経済学者がなぜアイドルを論じるのか?」と思われるかたもいるかもしれない。だが、そこはさすがにエコノミスト。通常のアイドル評論家がアイドルを論じるのとは異なった、経済学的思考に基づくアイドル論が縦横無尽に展開されている。

本書で展開されるAKB48論には示唆を与えられる点が多いが、評者には中でもとりわけ批評家・濱野智史氏の著書『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』(ちくま新書)について田中氏が論じた点が興味深かった。

この、濱野氏の『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』は、その挑発的なタイトルもあってか際物扱いされてしまい、これまであまり真剣に論評されてこなかった著作。その濱野氏による宗教としてのAKB48論を理解するための補助線として、田中氏は明治時代のキリスト教思想家にして、文学者でもある内村鑑三の「三角形理論」を導入する。

内村の説く三角形理論によれば、「甲」や「乙」といった一人一人の信徒は、「神」という絶対的な項を媒介としてコミュニオンを得るという。田中氏のblogに掲載されている図を参照してみよう。

内村鑑三の「三角形理論」

田中氏はこの内村鑑三の「三角形理論」を拡張し、濱野氏の考える「前田敦子とファンとの関係」に適用する。そこでは、オリジナルの「神」である位置には「前田敦子」が置かれ、「甲」と「乙」には、それぞれ「ファン」と「アンチ」を配されることとなる。

こうして形式化することにより、内村鑑三の宗教論と濱野智史の宗教論が同様の構造を持っていることがよくわかる。内村は神という絶対的な存在を媒介してしか、私たちは他者とつながることができないと考え、それと同様に濱野は前田敦子(=AKB48)を媒介してのみ、人は他者とつながれると考えたのである。

しかし、この関係性には限界もある。それは、こうしたコミュニケーションは、その共同体の「信者」にしか成立しないということである。「前田敦子を通してのみ、人は他者とつながれる」と考えるのは(アンチも含めた広義の)AKB48ファンのみであり、AKB48に関心のないものには関わりのないことである。同様に、神の絶対性に畏怖するのもキリスト教者のみであろう。

しかしながら、本書で田中氏も指摘するように、AKB48は一部のファンたちによる「カルト」というには巨大すぎる存在となってしまった。果たして、AKB48は今後社会とどう対峙していくのか? その行く末を占う上でも、本書は議論の出発点となるべき一冊といえるだろう。