以下は『週刊エコノミスト』11月26日号に寄稿した論説に一部修正・加筆したもの。
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 河上肇(1879年生―1946年没)は多面的な経済学者であった。時にその「多面性」は分裂し、矛盾した印象さえも人に与えるほど複雑なものであった。河上肇は日本を代表するマルクス経済学者として著名であった。マルクス主義では宗教的真理を否定するのが一般的だ。しかし河上は、自らを「宗教的真理と科学的真理の統一」を信じるものとして規定している。この河上の立場は、マルクス主義の「常識」を逸脱すること甚だしい。そのため河上の精神的な弟子ともいえる住谷悦治(元同志社総長)は、河上を「特殊なマルクス主義者」あるいは「河上的マルクス主義者」と名付けた。「河上的マルクス主義者」とは、すでに河上肇以外だれをも想定していないし、実際に河上以後に「宗教的真理と科学的真理の統一」を求めたマルクス経済学者はいない。そしてマルクス経済学のみならず、日本の経済学の歴史の中で、河上肇はその波乱に満ちた生き方、求道的な精神、そして思想的な多面性において他の追随を許さない弧絶した位置にある。
 河上肇の「多面性」を考えるうえで、彼の故郷であった山口県の精神的風土をまず考えるべきだろう。彼は若い頃から、吉田松陰の影響をうけ、志士的な情熱、ナショナリズム的な心情を培っていた。この志士的ナショナリズムは、国のために一身を捧げ尽くすという「没我」的態度として終生変わることがなかった。多くの河上肇の研究者は、この河上の側面を「求道の精神」とも評している。
 この志士的ナショナリズム=求道の精神は、河上が上京して、キリスト教や内村鑑三の影響を受けることで絶対的な非利己主義の立場に移行していく。例えば、足尾銅山事件に関する講演を聞いて感激した河上は、自分の身ぐるみ一切を同事件の救済会に寄付したことがあった。また卒業後、ジャーナリズムで人気を博していたにもかかわらず、その名声を一切捨てて、新興の宗教団体に加入し絶対的な非利己主義の悟りを得ようとした。これらの経験と思想的な格闘を通じて、河上は次第に自分を「天下の公器」、つまり自らの身は社会の根本的改革という使命を帯びた手段にすぎない、そのような天命を受けていると自覚したと思われる。
 では、どのように社会を改革すべきだろうか。河上は京都帝国大学の教員となり、経済学の研究にいそしむ。その目的は社会の貧困を解決することにまずは置かれた。河上の研究経歴を追うと、まず当時の日本における主流経済学であったドイツ歴史学派の教義を体得し、やがて「新しい経済学」であった新古典派経済学の翻訳者・紹介者として評価を得ていった。当初の研究業績には、マルクス主義やマルクス自体への言及は乏しい。例えば、河上の代表作として今日でも著名な『貧乏物語』(1917年)では、貧困の問題は制度転換ではなく、もっぱら富裕層の奢侈の自制という倫理的な側面が重視されていた。またこの『貧乏物語』では、河上のナショナリズム的側面が強くでてもいる。例えば貧困をなぜ解決しなければいけないのか。それは国家の生産性を増強するためであった。社会的弱者の困窮自体を解決するのが目的ではない。実際に、河上の同時代のライバルであった福田徳三が社会的弱者の生存権を認める社会政策の必要性を訴えたのに対して、河上はそのような生存権に固有の価値を見出すことはなかった。あくまでも国家の生産性に貢献するためだけに、社会的弱者の待遇の改善を要求していたのだ。
 だが、ここで河上の「多面性」が顔を出すことにもなる。彼の経済学体系の基礎は、人道主義的なものだった。これはもちろん足尾銅山事件で虐げられた人々をどうにかしなくてはいけないとした熱い情熱―絶対的非利己主義―に通じている。河上の経済学体系の人道主義的側面は、彼の経済思想史を見ると明瞭だ。河上はアダム・スミスから始まる経済学の歴史を、利己主義的な経済思想が次第に利他的な経済思想と競い合い、やがて後者に道を譲るものとして俯瞰した。『近世経済思想史論』(1920年)や『資本主義経済学の史的発展』(1923年)はその代表的著作である。
 このような人道主義的側面は、先の冷酷なまでの国家主義的な貧困対策と対立するだろう。この対立関係は、米騒動(1918年)以降、本格化していく河上肇のマルクス主義への傾斜とともにより深刻な問題になっていく。人道主義的な経済思想と国家主義的な政策のあり方は、マルクス主義の徹底によって「統一」される。少なくとも河上はそう理解したはずだ。
 この「統一」を促したのが、櫛田民蔵の批判であったことはよく知られている。櫛田は河上の人道主義的側面を特に強く批判していた。その結果、河上はマルクス主義や『資本論』などのマルクスの文献の研究により深くまい進していく。と同時に、政治活動にも努め、それらのことが重なって京都大学を辞職することになる。このマルクス主義の本格的な修行時代はまた時代的には昭和恐慌期と重なっている。
 この昭和恐慌期に、河上肇は石橋湛山と恐慌の対応策を巡って論争を展開した。当時、『東洋経済新報』の社主であった石橋は、リフレーション政策(デフレを脱却し低インフレに移行して経済の安定化を達成するもの)を主張していた。それに対して河上肇は、石橋のように積極的な金融緩和政策は効果がないか、もしくはあってもハイパーインフレにつながるとして批判した。河上の基本的な立場は、恐慌は資本主義経済では不可避の現象であり、それを根本的に治癒するには共産主義的な体制への転換が必要である、という「清算主義」的な立場にたつものだ。ここでまた河上の「多面性」がはらむ問題が顔を出している。将来の制度転換まで、いま目前で困窮している人たちを見捨ててよいのだろうか? という問題だ。残念ながらそれについての河上のビジョンはない。
 河上は32年コミンテルンテーゼなどの翻訳と普及に努め、やがて日本共産党党員になる。「地下活動」を展開した後に逮捕され有罪判決を得、1933年から37年にかけて刑務所に収容された。この間、河上は自分の生涯をふりかえる『自叙伝』の執筆を開始し、また「宗教的真理と科学的真理の統一」をテーマにした諸論考を書いた。ここで宗教的真理は、彼の志士的ナショナリズムに伴った情熱、絶対的非利己主義、そして人道主義からなる情熱と信念の体系と考えた方がいい。そして科学的真理とは、マルクス主義の教義のことを指す。彼はこのようなふたつの真理が矛盾することがなく、ひとつの人格の中に安住する「アイデンティティの複数性」(アマルティア・セン)を自らの独自性とみなした。
 出獄後、河上はマルクス主義の活動家や執筆者としての活動を辞める。そして自らを「閉戸閑人」と号して一種の隠遁生活に入る。だがこの時期に残したおびただしい漢詩や小文を読むと、彼の志士的な情熱の息吹は止んでいない。
 私が所有する河上の自筆による漢詩にはこう書いてある。
 「手械 東に過ぐ 白首の囚」
これは手錠をはめられ、刑務所に収監されたときの自身の姿(白髪の頭の囚人)を詠んだものだ。このときの気持ちを数年経ても忘れることはないと。それはまた河上の熱い社会変革の心が続いていると読み直すことができるだろう。河上の多面性を一点に集約したのは、この尽きることなき彼の情熱だった。