中野剛志氏は標記論稿で、ウクライナ危機は唯一の覇権国家アメリカがその地位から転落する契機であるとする。果たしてその議論は妥当であろうか。本稿では「リベラルな国際秩序」「穏健な覇権国」の観点から反論を試みる。

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1.中野氏の議論の概要

ズビグニュー・ブレジンスキーはカーター政権の国家安全保障問題担当補佐官として、米中国交正常化という形で事実上の「米中協商」を構築し、中東地域防衛のために後にアメリカ中央軍(USCENTCOM)に発展する緊急展開部隊を創設するなど、大胆に地政学的対ソ封じ込め政策を展開した。

中野氏は標記論稿で、ブレジンスキーが1997年に上梓した『荘大なチェス盤』を援用する形で、地政学的見地から、ウクライナ危機を契機にグローバルな覇権国アメリカの転落が始まるとする。中野氏の議論は以下のように要約できよう。

冷戦後の北大西洋条約機構(NATO)とヨーロッパ連合(EU)が推進した東方拡大は、ブレジンスキーが『壮大なチェス盤』で提示したアメリカの地政戦略を実践したものといえるが、ウクライナ危機はそのような戦略の破たんを意味する。そして、ウクライナ危機はチェス盤(ユーラシア大陸)のパワーバランスを崩し、極東にまで連鎖的に影響を及ぼす。具体的には、①アメリカは中東情勢でロシアの協力を得られず、それに伴うエネルギー価格の高騰は日本への打撃となる。②このことは同時に中国のエネルギー資源確保の動機を高め、同国の海洋進出を強化させることにつながる。③ウクライナ危機への対応のため、アメリカは中東と欧州防衛に力を割かねばならなくなり、結果として東アジアの防衛が手薄になる。④ウクライナ危機は中ソの接近をもたらし、これにイランが加わればアメリカはユーラシア大陸から締め出され、結果としてグローバルな覇権を失う。⑤ウクライナ危機に対応できなかったアメリカが、尖閣諸島の防衛に対処できるとは思われず、また中国の海洋進出に対しては国際法は絵に描いた餅に過ぎない。

そしてこのような主張の後、中野氏は、安全保障をアメリカ頼みにする「不都合な現実から目を逸らしたい親米保守主義者」を非難する。

2.アメリカによる「リベラルな国際秩序」

中野氏の議論は、ブレンジンスキーの地政学の理論を恣意的に引用することで、覇権国アメリカの転落というシナリオを導きだしている。しかし、アメリカの覇権は地政戦略のみによって維持されているわけではない。地政戦略とともにアメリカが「覇権国」の地位を享受している要因としては、ジョン・アイケンベリー教授が指摘するような、第2次大戦以降にアメリカが築き上げた「リベラルな国際秩序」の存在が大きいと思われる。このことについて、中野氏の議論との関連で見れば、『フォーリン・アフェアーズ』誌に掲載されたアイケンベリー教授の論文「地政学の幻想―リベラルな秩序の永続的な力」[1]が興味深い示唆を与える。

上記論文は、同誌に掲載されたウォルター・ラッセル・ミード教授の論文「地政学の回帰―修正主義勢力の逆襲」[2]に対する反論である。同論文でミード教授は、冷戦後、「歴史の終焉」の論理からアメリカは地政学を忘れてリベラルな国際秩序を築くことに邁進してきたが、ウクライナ危機を契機に中ロそしてイランが現状秩序に対する修正主義勢力として台頭し、国際政治は再び地政学の時代へ回帰していると説く。アイケンベリー教授はこのようなミード教授の主張に対し、アメリカは地政学的紛争を永続的なものと捉えており、第2次大戦以降、アメリカが構築した多国間協議制度、同盟、貿易協定、政治的パートナーシップなど広範囲にわたるリベラルな国際秩序は地政学の終焉を前提としたものではなく、どのように地政学上の重大な課題に応えるかを目的としたものであると主張する。

中野氏も、中ロそしてイランが手を結ぶことで、アメリカをユーラシア大陸から締め出す動きにでつつあるとしている。しかし、アイケンベリー教授は、中ロは現状秩序中で一定の利得を享受する一方、あらたな国際秩序の構築者としての能力をもたず、修正主義勢力というよりもせいぜい現状秩序の中の攪乱者にすぎないとする。中野氏はブレジンスキーを引用することで、冷戦後にアメリカが獲得した唯一のグローバル覇権国の地位は1世代ほどしか続かないとしているが、少なくとも中ロの挑戦により「リベラルな国際秩序」にかわる新たな国際秩序が近い将来現れる気配はない。

3.「穏健な覇権国アメリカ」

「現在のところ、アメリカがもたらすものが我々にはベストだろう。中国はアメリカほど温和でないと見ている。・・・(中略)・・・アメリカは覇権国だが穏健な覇権国だ。私はアメリカとなんとか上手くやっていける。いまある覇権国がそのままあればよいではないか」[3]

これは、中野氏が標記論稿で批判する「不都合な現実から目を逸らしたい親米保守主義者」の発言ではない。その卓越した知性、胆力、地政学的造詣などから各国の政治指導者が師と仰ぐ、シンガポールのリー・クアンユー前内閣顧問の発言である。アメリカにとって「黙示的な同盟国」であるシンガポールは、アメリカ軍のグローバルな兵站の一翼を担っている。また東南アジア諸国連合(ASEAN)の創設以来のメンバーであるとともに、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシアなどの英連邦諸国とは「5カ国防衛取決め」という軍事同盟を結んでいる。そして今年で13回目を迎え、実質的に各国の国防相級閣僚会合の場となっているアジア安全保障会議(英国国際戦略研究所主催)は、シンガポールのシャングリラホテルを舞台にすることから「シャングリラ会合」の通称で知られる。

このようにシンガポールは、同盟国であるアメリカを「穏健な覇権国」として受け入れるとともに、多国間同盟・協議制度に組み込まれることでアジア太平洋地域の安全保障において枢要な地位を占めている。そして、程度の差はあれ、アジア太平洋地域では多くの国がアメリカと同盟・パートナー関係を結ぶとともに、多国間協議制度に加わることを安全保障の基本政策としている。近年、このようなアメリカの軍事的優越性を前提に、2国間同盟や多国間協議制度などからなる多層的な安全保障の枠組みを、「アーキテクチャ」という概念で表現する。日米同盟も、その他の2国間同盟や多国間協議制度と密接に連関することで、アジア太平洋地域における安全保障アーキテクチャの構成要素として枢要な地位を占めている。換言すれば、日本の安全保障や日米同盟を議論する際、もはや日米の「バイ」の関係だけに注目するだけでは不十分といえる。「アーキテクチャ」という「マルチ」の文脈に位置付けなければ有益な議論は期待できないのである。

この点でいえば、中野氏は日米関係を相変わらず「バイ」の関係でしか捉えておらず、真剣にアジア太平洋地域の安全保障について議論しているとは思われない。アメリカはアジア太平洋地域の安全保障アーキテクチャの中で「穏健な覇権国」としての機能している。換言すれば、アメリカが「穏健な覇権国」として機能するには、アーキテクチャを構成する同盟・パートナー国の側の役割も大きい。これを「リベラルな国際秩序」との関連でいえば、アイケンベリー教授は上記論文で、中ロに同盟国と呼べる国がごくわずかしか存在しないのに対し、アメリカには約60か国以上との間に軍事的パートナーシップが存在すること、そして世界の防衛費の75パーセントがアメリカとその同盟・パートナー国によることを指摘している。中ロとの対比からアメリカの世界戦略を語るのであれば、本来この様な視点は欠かせないのではないか。

4.まとめ

中野氏の議論は過度にブレジンスキーの地政学に依拠しているが、ブレジンスキーが大国決定論者であり、その理論には国際政治における中小国の役割を過小評価する傾向があることを考慮していない。また、地政戦略と同様にアメリカが覇権国としての地位を支える「リベラルな国際秩序」についての論究がないことは、ブレジンスキーの地政学を恣意的に援用していると受け取られよう。加えて日米同盟を論じる上でも、あくまでも日米の「バイ」の関係のみで捉え、それがアジア太平洋地域に形成されている安全保障アーキテクチャの中で枢要な地位を占めているという「マルチ」の視点に欠けている。このことについては、昨今のアジア太平洋地域の安全保障を考察する上での基本概念を踏まえていないと指摘せざるをえない。70年代にもアメリカは相対的に影響力を低下させ「内向き」の姿勢にはしった。しかし完全な孤立主義に回帰することはなく、西側の盟主としてソ連との新冷戦に臨んだ。アメリカ外交は国際主義と孤立主義との往還を一つの特徴とするが、中野氏の議論にはこのような基本的な歴史のアナロジーが見られない。

さらにいえば、中野氏は、アメリカの覇権国としての転落と、その現実を受け入れない親米保守主義者の不明を指摘する一方で、アメリカに安全保障を頼ることができなくなった日本が採るべき指針を示していない。読了後に「消化不良」を感じたのは評者だけではなかろう。


[1] G.John Ikenberry, “The Illusion of Geopolitics: The Enduring Power of the Liberal Order,” Foreign Affairs, May/June, 2014.

[2] Walter Russell Mead, “The Return of Geopolitics: The Revenge of the Revisionist Powers,” Foreign Affairs, May/June, 2014.

[3] リー・クアンユー他、小池洋次監訳『リー・クアンユー 未来への提言』日本経済新聞出版社、2014、254頁。