進化心理学という学問がある。ごく常識的な観察では、人間のこころには多面性があるだろう。自分のことしか考えないようなドケチな守銭奴が、他方ではそのせっせと貯めたお金を社会福祉のために献金することもあるだろう。また音楽や絵画などのハイカルチャーを愛する人が、同時に学芸会並みのアイドルの歌唱に涙することもある。このような人間の心の多面性を進化の産物としてみるのが、進化心理学の特徴だ。進化心理学では、こころはいくつかの「モジュール」(これは自律性の大きい半製品を意味する言葉だが、ここでは「こころの部品」という意味あい)が、無数に集合して出来上がったものだと考える。

 例えば代表的なモジュールとして、食物嗜好モジュール、連帯形成モジュール、子どもやほかの親族を助けたり扶養するモジュール、また裏切り者を検知するモジュールなどだ。また重要なものに配偶者選択モジュールもある。これは自然淘汰の結果として、わたしたちのこころには、自分の子孫を残すことを至上の目的とした配偶者選択のための心的機能が進化してきた、という考え方だ。例えば、女性はより資源(財産や社会的地位)を保有する男性に魅かれ、他方で男性はより若い女性を好むのは、この配偶者選択モジュールという子孫を残すための「こころの部品」が機能しているからだと考える。

 米国の心理学者でダグラス・ケンリックは、この進化心理学の研究で業績を残している人物だ。その最近著『野蛮な進化心理学』(白揚社)には、進化心理学の最新の業績がコンパクトに整理されていて面白い。例えば、「殺人妄想」。おそらくだけど、いやかなり高い確率で、あなたは「誰か」の殺人を心の中で思い描いたことはないだろうか? もちろん殺人妄想が実際の犯罪に結びつくことは必然的でもないし、殺人妄想が多い人が潜在的な実行犯だとも言いたいのではない。殺人妄想はわりと人類に一般的に観察できる。そして進化心理学の見地からみると実に興味深い「こころの部品」のかかわる領域だ。例えば、殺人妄想の対象、つまり殺したい相手の大半は男女ともの男性だそうだ。男性の実に85パーセント、女性でも65パーセントが男を殺したいと日々妄想しているという。しかし重要な性差もある。ひとつには、男性の方は見知らぬ他人を妄想することがとても多いのに、女性の方の殺人妄想の対象は現在の恋人だという点だ。しかも女性の殺人妄想は数秒程度の持続でしかなく、また単発的だ。つまり非常に軽く衝動的だ。対して男性の方は反復性をもち、妄想時間もやたら長く現実的だ。さらに話を妄想から殺人実行に移そう。殺人の理由をみてみると、男性の方は圧倒的に「ごくつまらない理由」で人を殺してしまう。少なくとも居酒屋程度で乱闘するには、視線が交わされたとか、服がふれたなど本当にごくつまらない理由でいざこざが発生しやすい。この殺人妄想も実行も、このような興味深い現象には、さきほどの配偶者選択モジュールという「こころの部品」がかかわっている。

 簡単にいうと、女性は子供を産むという過大な投資を行う。そのために男性を主に社会的地位(金銭的な観点もかなり入る)で慎重に選別する。殺人妄想がライト感覚なのも自分の投資元本(母体)が大切なので、力の差がある男性と肉体的格闘を避けるからだ。他方で、慎重に吟味する女性に対して、男性の方は選ばれるために必死に競争する。配偶者選択モジュールは別の角度からみると、性淘汰という現象と同じである。例えば男性が見知らぬ相手に殺害妄想をもつのは、彼が酒場でまったく知らない他人とちょっとしたことで喧嘩することにも似ている。その動機の根源には、深い合理性―例えば性淘汰の結果として、女性に選ばれること、もっといえば他の男性に対して自分が優位にあることをみせつけることが大きく規定している。  

 しかしこんな殺人サルみたいな行動性向だと、なぜわれわれは見知らぬ他人と協同で仕事ができたり、または仕事をしないまでも日々、電車の中やカフェで、まったく知らないもの同士、安心して居場所を確保することができるのだろうか? という素朴な疑問が生じる。僕の知り合いでも、都会の雑踏の中で、見知らぬ他人の中にいると、むしろほっとするという人もいる。これは進化心理学の知見と違うのではないだろうか?

 その疑問に対して、フランスの経済学者ピーター・シーブライトは『殺人サルはいかにして経済に目覚めたか?』(みすず書房)の中で、やはり進化経済学の知見から答えを与えている。シーブライトによれば、私たちの「こころの部品」には、自分やその種(家族)だけしか関心がないような配偶者選択モジュールがある。これはきわめて利己的なものと解釈できるだろう。自分の損得を冷徹に計算し淘汰圧を克服していく進化の産物といえる。しかし他方で、われわれの「こころの部品」の中にはほんのわずかにではあるが、他者からうけた好意を、それ以上の好意でお返しするような「強い返報性」という性格がある。このわずかな偏差がとても重大な結果を招く。

 これは経済学でよく知られた事実なのだが、例えばある地域の住民たちが、自分の隣の住んでいたり、またはごく身近な間柄の人たちの意見「だけ」を参考にして、なんらかの意思決定をするとしよう。このような「視野狭隘」(自分の身近な意見しか聞かない)は、住民全体の意見をまったく同じものに変えてしまう。しかしこの集団の中に、たったひとりでも、両隣の顔色をうかがうという決定ルールにしたがわない人がいるだけで、1)ふたつの決定ルールに色分けされた「集団」が形成される、2)両隣ルール以外の意見が制覇する、など多様性が発現するのである。

 シーブライトの指摘したのもこのような地域住民の決定ルールによる集団分けと同じだろう。自分のことしか考えないモジュールをもっていても、それと矛盾しない形で、他人のことをより強く配慮することができるモジュールも生き残れる。時には自分のことよりも他人のことしか考えない博愛主義者さえ生まれる。そしてこのふたつのモジュールが互いに補いながら、時には自分だけの成果を求めたり、また時にはチームプレイに努めることで、ひいては見知らぬ他人同士の大規模な社会を運営しているのだと。進化心理学を経済学に応用する試みは始まったばかりだが、とても興味深いものだ。