安保法制を巡る国会での議論はとても噛みあっているとは思えない。野党とマスコミが「戦争法案だ!」と煽り、憲法学者がその尻馬にのって「政府には訴訟リスクがある」などと喧伝している。特に、木村草太氏の以下のインタビュー記事を見て驚いた。憲法学者というのはファンタジーの世界に生きているらしい。

(集団的自衛権 行方を問う)解釈改憲には訴訟リスク 憲法学者・木村草太氏:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/DA3S11177550.html

ツッコミどころは満載だが、ここではベスト3だけ挙げておこう。

1つ目
「国家は、憲法で禁止された行動ができないだけでなく、憲法に根拠規定がない行動もできない。」
→憲法学の通説では自衛権は自然権として認められていたのではないのか?憲法典に根拠規定がなくとも、憲法上の権利(東大憲法学の用語では国家の自然権)では?

2つ目
「情勢が緊迫しているから憲法を無視してもいいと開き直るのは、自ら違憲と認める自白に等しい。」
→原則論としてはその通りだが、では日本国憲法は憲法危機(国家の存立を脅かすような危機)に対処できるのか。国家を守れない憲法に意味があるのか。それこそ日本国憲法が欠陥憲法だと自白しているではないか。

3つ目
「国内の憲法を無視すると、国際法もないがしろにすると見られ、外交上もリスクが高い。三権分立をやっていない国はあるが、国際社会で信用されていない。その仲間入りをしてもいいのだろうか。」
→その通りだが、こういう文章を書いている憲法学者が中国やロシアを批判しているのをみたことがない。これは何を発言したかではなく、何を発言していないかによって評価されるべき発言。

憲法解釈を巡るこの手の議論は、一言でまとめると「昔決めたルールが時代の変化に対応できなくなった時、どのようにその矛盾を解消するか」という問題に集約される。現実に対処できるようにルールそのものを改正すべきだという原則論と、ルールを変えずに解釈だけで十分だという現実論の対立と言い換えてもいいだろう。日本国憲法の解釈を巡る問題は、ある種の宗教論争といった様相を呈している。

そこで、宗教の大先輩であるユダヤ教がこの問題をどうやって乗りきってきたか見てみよう。例えば、ユダヤ教には週に1度の安息日が定められている。金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切の仕事は禁止され、人々は神を讃えるお祭に参加しなければならない。しかし、ここで問題が生じる。旧約聖書が書かれた時代には電気がなかった。電気のスイッチを入れることが「仕事」に相当するのかどうか、旧約聖書のどこを読んでも書いてないのだ。そこでユダヤ教のラビは集まって議論をして結論を導き出した。電気のスイッチを入れることは、火を焚くことと同じであり仕事と認定されたのだ。
安息日において、エレベーターのスイッチを押すことさえ「仕事」に当たるので、金曜日の日没時間からエレベーターは自動運転となる。安息日が始まる前に自動運転モードにするスイッチを押してしまい、安息日が終わってから元に戻すわけだ。私は昨年の9月にエルサレムで安息日を過ごしたが、ホテルのエレベーターは1階から最上階まで上昇し、そのあと各駅停車で1階に降りてくるという自動運転だった。最初は戸惑ったが慣れてしまえば面白いものだ。
安息日と危機管理についても、ユダヤ教では2000年前から議論があった。「人命救助は安息日に優先する」というのは、ユダヤ教の宗教用語にもなっているぐらいだ。もし、旧約聖書に書いてあることを杓子定規に運用すれば、安息日は軍隊も、警察も、消防も、病院もすべて休業しなければならない。しかし、安息日を狙って異民族が攻撃を仕掛けてきたらどうなるか?軍隊も警察も休みだったら、ユダヤ人は皆殺しにされてしまう。そういう当たり前の危機管理について、ユダヤ人はずっと議論を続けてきた。
旧約聖書には確かに安息日について書いてあるが、それは神を讃えるという目的のための手段に過ぎない。もし、軍隊や警察や消防や病院まで安息日を徹底してしまうと、神を讃える民族が全滅する可能性が高くなる。これで神が喜ぶはずがない。神を讃える安息日を平穏に過ごすために、危機管理に関わる人間をむしろ例外として扱い、神を讃える人々をしっかり守り抜く方が、本来旧約聖書が想定していることにかなうのではないか。
このような新しい解釈によって、現在イスラエルでは軍隊、警察、消防、病院などで働く人は安息日の例外となっている。旧約聖書に書いてあることは絶対に変更できないが、解釈によって現実に対応し、結果的に神を讃える人々を滅亡から守っているわけである。

では、この考えを日本国憲法にも適用してみたらどうだろう。日本国憲法という「憲法典」は、日本人の歴史、文化、伝統といったものを総合した日本の「憲法」という大きな氷山の一角でしかない。「憲法典」が謳う平和主義、人権尊重は素晴らしい。その素晴らしい理念を実現するために、日本国の領域は外国から守られなければならない。それを「憲法」が否定するはずはない。だとしたら、「憲法典」に何が書いてあろうと国家の自衛権を否定することは不可能だ。(「憲法」と「憲法典」の違いが分からない人はググってください)
問題は、それを実現するための手段をどこまで認めるかということである。何も決めずに出たとこ勝負という状態にすることは、軍の暴走を招き、戦前の悪夢がよみがえる。ならば、事前に想定できることについて予め法律でどこまでやれるか決めておけばよい。
現代の国家間の争いは、軍隊が対峙して弾を撃ちあうような単純なものではない。不法移民に見せかけて武装ゲリラを上陸させるような、戦争と犯罪の中間のグレーゾーンのような事態も沢山想定される。これらは日本国憲法が書かれた時点ではあまり想定していなかった話である。しかし、現実的にはそれらに対応しなければならない。憲法典の記述に頼ったところで、グレーゾーン事態への対応の回答はどこにも書いていない。我々はユダヤ教徒のように法典を積極的に解釈し、本来の目的を達成するための手段を柔軟に選択していくべきなのである。ユダヤ教においてはその目的が神を讃えることであり、日本国憲法においてはそれが平和と人権を守ることなのだ。
南シナ海で勝手に他国の領海を埋め立てて領有権を主張している野蛮な国がある。こういう国が近隣諸国をナメきって軍事的な冒険に出ないように、日米が中心となってパトロールを行うなどの具体的な対応が必要になる。これは周辺の平和を守るための手段であり、結果として日本国の領土を守り、人権を守ることにつながる。
最高裁がそのことに違憲判決を出す根性があるだろうか?国民に選ばれたわけでもない裁判官に安全保障政策を決める権利はない。


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