ヘイトスピーチとは、公の場で特定の人や人種、性、属性について憎悪や差別的な発言または文章などの表現行為を行うことである。関連した概念にヘイトクライムがあり、こちらは発言ではなく、傷害などの身体的な損害を含めている。日本では21世紀になってこのヘイトスピーチをめぐる問題がしばしば議論されてきた。例えば、在日外国人に対するヘイトスピーチを展開する団体や個人に対する問題。集団デモの形をとってありもしない「在日特権」などを批判する行為などが社会問題化してきた。またこのようなヘイトスピーチに対して、いわゆる「カウンター」と称するヘイトスピーチへの対抗的言辞もしばしばその過激な態様とともに報道されることがある。いわばヘイトにはヘイトをという言論の過激化さえおきている。

 ジャーナリストの安田浩一氏は『ヘイトスピーチ』(文春新書)の中で、ヘイトスピーチは「言葉の暴力」ではなく、人間性そのものにダメージをあたえる暴力そのものであると厳しく指弾し、その規制に積極的である。またカウンター側の代表的な論者である野間易通氏とトークイベントをする機会をもったが、そこでの彼の主張もまた「言論の自由と格闘する」という決意を持ったものだった。もちろん安田、野間氏らも規制すれば問題は終わりだとみなしているわけではないのは指摘しておかなくてはいけない。差別や嫌悪という感情は規制すればなくなるわけではないと彼らは共通して述べている。また古谷経衡氏はヘイトスピーチと今日の「ネット右翼」の構造との関連を鋭利に分析している(『ネット右翼の終わり』晶文社)。

 古谷氏は日本の戦後の保守の主流的意見(保守王権ともよぶ)がネットやニュースなどで「見出し」(ヘッドライン)だけみて、それだけで妄想たくましくさまざまな負の感情を爆発させる集合的行動を「ヘッドライン寄生」とよんでいる。このヘッドライン寄生を多く行う心理的集団を、古谷氏は「狭義のネット右翼」とよび、それは21世紀になって特に民主党政権時代に力を得たと指摘する。その上で、ヘイトスピーチとの関連を以下のようにおさえている。

「「ヘイトスピーチ」とは、「保守王権」と「狭義のネット右翼」が癒着した果てに登場した、最悪の言説の集合体である。そこにあるのは無知と非科学とトンデモである。こうした魔物の正体と見極め、痛打を加えることこそ、いま最も「保守」に求められるリテラシーではないか」244頁。

 ところで言論の自由を経済学の見地からとらえるとそれはどんな風に表現できるだろうか。古典的な経済学者は、言論の自由を競争的市場のアナロジーとして考えていた。代表的には、ジョン・スチュワート・ミル(19世紀イギリスの経済学者)だ。ミルはいまも読み継がれている古典的著作『自由論』の中で、規制されることのない言論の場こそが人々の満足(効用)を増加することができるとした。

 競争的な市場では、財やサービスを購入する側(需要という)と売る側(供給)が、価格の調整によって一致することで取引を行うときが、最も買い手も売り手も満足が最大化される。例えば、パンの需要の方が供給よりも上回るケースを考える(超過需要という)。超過需要が存在するときは、パンの売り手は多少価格をあげても買い手を失うことはない。売り手はどんどんパンの値段をあげていき、超過需要がなくなるところ、つまり需要と供給が一致するところでとりあえず値段を上げるのをやめておく。もしそれ以上に値段をあげるとどうなるだろうか。今度は、供給の方が需要を上回るだろう(超過供給という)。超過供給を放置しておくと売れ残りが発生するので、パンの売り手は今度は価格を下げていくだろう。そしてやはり需要と供給が一致するところで引下げをやめる。超過需要のケースでも超過供給のケースでも価格が動くことで、パンの需要と供給が一致することころでその動きが終わるだろう。そしてそこから外れないことがパンの売り手買い手双方にとって望ましい状態になっている。これが「市場の法則」と呼ばれるものである。

この市場の法則が保たれないとどうなるだろうか? 例えば心の優しい権力者が貧しい人にも安いパンを提供できるようにパンの最高価格を規制したとしよう。そうすると超過需要があっても、パンの売り手は価格を引き上げることができない。超過需要は解消されず、それは現実的にはパンの品不足を招いてしまうだろう。心優しい権力者の価格規制は、貧しいものを助けるはずが、かえってパンが手に入らない状況を生み出してしまう。まさに地獄の道に通じる善意である。

この「市場の法則」と同じようにミルは言論の自由も考えている。ミルが言論の自由の根拠としてあげた理由は主に四点あった。1)多様な意見がないと特定の意見を誤りがまったくないものとみなしやすい、2)多様な意見が衝突することで、意見のもつ問題点や改善点が明らかになる、3)反論に出会うことで自分の支持している意見の合理的な根拠を考えることにつながりやすい、4)反論に出会うことがないと、人格や行動に活き活きとした成長の機会がなくなる、というものである。これらは先ほどのパン市場のケースにひきつけていえば、言論の売り手と買い手がいろいろな意見(言論の取り引き値段)を言い合うことで、やがて両者が一致する言論の価格が存在するということだ。つまり意見の集約(言論の需要と供給が一致)するところで、言論の価格を取引することが両者の満足を最大化することになる。

もちろんミルは異なる立場での意見の集約について常に楽観的ではない。言論の自由がかえって意見の対立をはげしくするケース(集約した意見が不成立)や、またヘイトスピーチにあたるケースにも配慮している。だが、ミルはヘイトスピーチを規制することはかえって言論市場を損ねてしまうと批判的だ。政治的・法的な規制ではなく、ミルは世論の賢慮に委ねている。

「どちらの立場で主張している人であれ、公平さが欠けているか、悪意や頑迷さ、不寛容の感情をあらわにした態度で自説を主張する人を批判する。だが、自分とは反対の意見を持っている人に対して、その立場を根拠として、これらの態度をつるはずだと予想することはない」(山岡洋一訳『自由論』日経BP社)。

ところでこのようなミルの市場的言論の自由論に反対しているのが、現代アメリカの法学者のジェレミー・ウォルドロンだ。彼は著作『ヘイト・スピーチという危害』(みすず書房)の中で、ミルの主張ではハイトスピーチという「外部性」には対処できないとする。ウォルドロンによれば、ヘイトスピーチはそもそも他人の自由を侵犯することで、その人間としての尊厳を損ねるものだという。ミルの考える自由は、そもそも他人の自由を侵さないという前提が採用されている。だが実際には、ヘイトスピーチを言論の自由の範囲に含めてしまうと、さまざまな人たちの生きる自由を阻害してしまうだろう。例えば、ヘイトスピーチによって教育や就職の機会さえも奪われたり、ヘイト行動をする群衆によって営業ができなくなるお店もでてくるかもしれない。そのためウォルドロンはヘイトスピーチの規制を強く訴える。ただし彼が規制の対象と考えているのは文字表現のみである。

ミル的な「言論の自由」の立場にたつか、それともウォルドロンや冒頭の安田氏らの「ヘイトスピーチ規制」の立場にたつのか、この問題を考えること自体がひとつの意見の多様性とその効用を問う場にもなっている。私はミル的な立場に共感するのだが、読者のみなさんはどうだろうか?